なぜ、ひとは生きるのか
人生には百人百様のいき方があります。今の日本において、生きることについて特に考えたり、問うたりしなくても、惰性のように日々を歩んでいけばそれなりに生きていくことは可能かもしれません。おりおりに、楽しみを加え、健康でさえあれば、小さな家族の幸せがあれば、それでよしとします。それはそれで、小さな幸せを大切に生きる生き方です。けれど、時として、この小さな幸せが崩れるときが、人生には避けがたいのです。きょう一日を、耐えて生きることしかない、重荷のように感じられる日々です。こうした人生をなぜ生きねばならないのか。社会には、失なわれた小さな幸せを求めて、パニックの中で、必死に人生を問い始める人もいることでしょ う。
人はより幸福で、満ち足りた一回限りの人生を歩むべきです。数週間前の新聞記事で、日本はなお世界一の最富裕国という記事が出ていました。数字の魔術、ここに極まれりという印象を受けましたが、途方もない貧しさにあえぐ国からすれば、われわれはなお、物質の洪水の中で日々の歩みをしていると言えるでしょう。そして、たぶん大富豪であろうと、極貧の中にあろうと、人の心から、物や金への欲望と執着心はとどまるところがありません。家もあるし、新車にも乗っている。若さもあるし、幼い子供もいる。外見は、絵に描いたようなしあわせ家族なのに、生きる意味を求めて苦しみ続ける人の群れは、半端ではないのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
テサロキケ一 5:16
この言葉を人々に伝えた使徒パウロという人は、疑いなく本当の喜びに生きた人でした。しかしパウロの日常生活は安穏とした小さな幸せとは無縁でした。迫害や苦難が常に行く手を阻んでいました。教会の内部にさえ、彼の考えと相容れない反対者たちがいました。時に、「人生これまで。」とばかりに生きることに幕引きをしてみたい衝動に駆られることもあったかもしれません。
「私にとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。・・・一方では、この世を去って、キリストと共にいたい。だが他方では、肉にとどまるほうが、あなた方のためにもっと必要です。」
フィリピ1:21,23,24
こうした言葉を味わいながら、人生の達人であるパウロと言う人を見つめると、少し見えてくるものがあります。少なからずカネやものを、人間の幸せの基本だとふと思っている考え方は、やはり間違っていること。本当に幸せになろうと願うなら、<パウロ>又は<あなた>を支えとして生きている人のために生きるべきだ、ということです。
パウロと言う存在を通して人生を肯定できた人々の群れがありました。同様に、この21世紀という時代に、数は多くはないけれど、あなたという存在を通して人生を肯定的に生きる人が必ずいるのです。人がいくら自分のためだけに生きて見ても、心が満ち足りるはずなどないのです。人は他者のために生きて初めて幸せを見出すのです。人間とはそうした存在なのです。
パウロを心の支えとする人々とがいたように、「あなた」を人生の支えとしている人々がいます。わたしたちはその人々のために生きます。だから、人生は必死にでも生きなければならないのです。そこには、じつは見えざる神が、臨むのです。力を与えるのです。予想もしない神の業が実現するのです。
(2007年01月21日 週報より)