私たちはどうしたらよいのですか (使徒2 : 37)
今、日本全体に生き生きした、みなぎる力が感じられません。社会全体に閉塞感がおおっている、と多くの人々が感じています。秋葉原で起こった信じられないほど残虐な殺傷事件も、日常、外見からは、おとなしく礼儀正しい、控えめな態度の、小中学校時代は優等生でとおっていた1人の青年の凶行でした。
現在の日本という国を経済の指標や、さまざまな社会システムから分析すると、世界基準からするならけっして住みにくい国ではないはずでしょう。今回凶行に走った青年も、今のところは定職があり、アパートもあり、故郷には両親がおり、ともかくいわゆるネットカフェ難民でも、ホームレスでもなく、彼より条件の悪い生活を強いられている人は数多い。
しかし彼自身のおかれた状態を我慢の出来ない、希望と将来の見えないものと断定して、それを社会や親や、職場という他人のせいにして、一挙に無縁の人々を巻き込んで報復しようとする突然の豹変。
自分のおかれた状態に不満だらけで、転職を繰り返しているなら、一つの仕事を選んで、じっくり勤め上げればよい。それが出来ずに、次々と職を変えていく自分をあわれんで、すぐに他人にキレル。そうした生き方をして異性の友人ができるはずもなく、それがまた自分を深い絶望と追いやっていく。
今回事件を起こした青年だけでなく、自分に対する思い込みから<自分には希望がない>と断定してしまっている人は、少なくないのではなかろうか。単なる他人との比較で自分自身にダメだしをすることは愚かなことです。人間は限りない可能性を持った存在です。
聖霊降臨が起こったペンテコステの朝、変貌したペトロの説教を通して3千人の人々が回心しました。そしてこの人々は言いました。「私たちは何をしたらよいのでしょう。」ペトロは「悔い改め」を求めました。つまりは生活の方向転換を求めました。それまでの思い込みを捨てて、自分自身にかけられている神の可能性に目覚めることです。それ以前の生活にあった希望を捨てた暗い思い込みを捨てて、新たなビジョンに向かって自分をスタートさせることです。<若者は幻を見、老人は夢を見る。>
私たちは可能性と、不可能性をさまざまに併せ持つ存在です。しかし、自分の視界に入るのは、足りなさ、至らなさ、短所です。そこにこだわり、自分をあわれんでみたり、他人への怒りや苛立ちをつのらせたりもします。しかしそれこそ悪魔の誘いと言えるかもしれない。冷静な自己分析と計画性をもって、彼は犯行にまで立ち入った。愚かしくも、冷静な理性に基づいた行動だった。
われわれは、神によって、心の目を開いてみよう。若者は幻(ビジョン)を、老人は清い夢を見るべきなのです。自分にも、他人にも、ダメだしをやめて、神による可能性を信じて、夢を見、神を待とう。結果は必ず出る。
(2008年06月15日 週報より)