天国を激しく襲う者

「天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」

マタイ11:12

聖書の言葉、イエスキリストの言葉には時折理解不能に感じる言葉があります。上記の言葉もその一つに思えます。この言葉をある人々は、天国というものは、力づくでも自分のものとしなさいと主イエスは教えられた。そう考える人がいる一方で、徐々に教会とキリスト者に向けて強くなる迫害の中で、神の国は文字通り悪人によって襲われ苦しめられる。そうした迫害に忍耐と信仰をもって歩みなさいと主イエスは語られたのだと解釈するする人々がいます。いずれにしても私たちはキリスト者。イエスをキリストと仰ぎ、日常生活の中でイエスキリストに特別の価値と関心と位置を覚えて日々を歩んでいる(つもり)です。ですが実際には日常生活にはそのつもりと、そうでない日常の矛盾に悩むことがありはしないでしょうか。いなむしろその事実に気づいていない人の中に、はるかに大きな問題性が見えて恐れおののくことがあります。

一方にマザーテレサという偉大な女性を思い起こします。偉大な女性でしたが身分は一人の修道女に過ぎない人でした。今のところ修道女(シスター)は、制度上は聖職者には入らない。マザーテレサは聖餐のパン(カトリック教会では聖体と呼びます)は一つはミサ(聖餐式)で戴き、もう一つは日中貧しい人々の中で戴くといいます。かつてカルカッタの町をマザー・テレサが歩いていた時、どぶの中に一人のおばあさんが倒れていたそうです。早速マザーが主宰している<死を待つ家>に連れてゆき、体を洗い、温めてあげたのです。彼女はマザーの手を取り、笑顔をうかべ、<ありがとう>と、ひとこと言い残し息を引き取ったのでした。けれどその微笑みはたいそう美しかったのです。マザーは、そのおばあさんのからだは、聖餐のパンにもあたるものといいます。なぜなら主は、貧しい人、病気の人、苦しむ人の中にいるといわれたからです。

何の事情も知らない第三者の目には悲惨きわまる死としか見えないひとりの老女の死ですが、それをイエスキリストのみ体である聖餐のパンとして受け止めたマザーによって、その老女は、人生の最後にあってこの上なく尊ばれた存在として自らをみつめることができたのです。そこに不思議な神の国の一種の逆転現象が起こるのです。信仰に生きるときに人の目に見える現実をこえて、全く違った神による真実がそこに展開するのです。

冒頭の聖句は直接的にはバプテスマのヨハネについてイエスキリストが語られた言葉でした。ヨハネの死も、ヨハネ自らも、その生き方と行動は、それでよかったのかどうかのはざまで苦しんでいた時の主イエスの言葉でした。神の国のために喜んで自らを捧げる。神の国を受けたからには、精一杯に神のために生きる。一人の人間として生きる上には、バプテスマのヨハネですら、迷いや疑いを避けることができなかった。ましてただの一人にすぎないわれわれは、様々な事情を抱え悩みに悩み、自分自身が解体してゆくような思いにすらかられます。
カルカッタの老女は、その生が何の意味もなかったかのように、どぶの中に横たわっていたのかもしれない。けれどマザーに出会って、身を清められて、イエスのみ体のようにいつくしまれて、微笑みを取り戻して、人生の最後の言葉は<ありがとう>だった。信仰に生きること、神にゆだねること、それは人の思いを超えた神の現実に出会わせられることではないだろうか。

(2014年09月07日 週報より)

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