受難節に思う

現代に生きるわたしたちは、時折、社会の現象や自分自身も含めて、人間性に横たわる<深い闇>の存在を漠然と感じる時があります。いま、教会暦の上ではレント(受難節)の時を過ごしています。ついでに言えば、昨日はレント22日目にあたります。由木教会の玄関に、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が飾ってあります。(残念ながら、いまのところ本物を見る機会がありません。)あの場面で主イエスは弟子による裏切りを予告します。すでに敵対者から受け取った銀30枚でイエスを売ったユダは、無表情に見えます。感情を押し殺す時に、人は無表情になります。ユダは自らイエスを売ったという自意識があります。しかし、他の弟子たちは、主イエスにそう言われて、何のことか全く理解できませんでした。ユダの行動は、単純に、金のためにとか、うらぎりのための、うらぎり、ではなかったと、言われたりもします。

ユダも含めて、弟子たちは、結局、主イエスを見捨て、裏切り、弟子であることを否定するようになるとは、夢にも思いませんでした。彼らは、自分こそ最良の弟子たらんと願い、日々、祈りと献身に生きていたのです。ですから<自分だけはつまずかない、強い弟子である>という、固い確信がありました。そうした、固い自意識こそが、致命的なつまずきを招く要因でした。イエス・キリストは人間の心には深い闇があることを、良く知っておられたのです。
主イエスは弟子たちが、ユダも、ヨハネも、ペトロも、ひとり残らず、御自身を見捨てて、裏切ることを、事前に知っていました。弟子たちは、体内に致命的な病気を抱えていながら、そのことに全く自覚を欠いた病人そのものだったのです。そして、じつはユダやペトロは、二千年前の人間ではないのです。われわれ自身が彼らと同じ弱さを持つ人間であることを知るべきなのです。<自分だけは決して間違えない存在。>そう思いこみたい。そうするために、自分ではない、他人を批判し、非難することで、自分の安全圏を造り上げる口実を作りあげようともします。でも、やはり知っていたほうが良い。ユダも、ペトロも、私自身であることを。口や、ペンで、自分の高さや、聖さを誇ってみても、行動が人間の実体を証明するのです。

でも、そのペトロが許されました。ユダはどうだろう?
自殺と言う彼の決着はまちがっていた。そうした誠実さを持つくらいなら、生涯、裏切りを悔いつつ、キリストのもっとも小さな弟子として、心の痛みと悩みに耐えながら、キリスト者として歩んでほしかった。
許されたら前歴は帳消しになるのでしょうか?
そう、主イエスは寛大な全面的な赦しを与えて下さる。人は赦された事実を受け入れ信じなければならないのです。けれど、赦された側は、そのことでますます、過去に向き合うのです。過去の事実に心痛め、過去に悩むことは、単に過去に目をやることではなく、将来を造り上げて行くのです。そうあることでキリスト教はアヘンではなく、健やかに生きる道が開かれるように思います。

(2005年03月06日 週報より)

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