許されて
イエスキリストがゴルゴタの丘で十字架にかけられ、そして地上の生涯を終えられたとき、弟子たちは関わりを恐れてそこにはいませんでした。かつて主イエスによって人生を取り戻した人、病気を癒された多くの人々は主イエスを深く案じつつ何をすることも出来ませんでした。ただ主イエスに従ってきた女性たち―マグダラのマリア、 小ヤコブとヨセの母マリヤ、サロメその他大勢の女性(マルコ15:40,41)はそれでも比較的近いところから主を見守り、アリマタヤのヨセフらと共に主イエスの御体を十字架から降ろし、埋葬しました。
生と死はつながっています。ひとは生者を慈しむように死者を、敬意をもって記憶し続けるのです。ある人にとっては、死は死者を忘却の彼方に追いやることです。けれど一人の人間存在は単なる肉体ではありません。人間存在は数えられないほどの多くの他人から受け継いだ精神的、文化的な総合体で、特に親や教師や、書物による教育的影響が人を人として造り上げているといえます。わたしという人の中に、今は亡き人のかたちが色濃く影響を与えているのです。イエスの弟子たちにとって主イエスに出会い、弟子に召され、3年のあいだ直接教えを受けられたことは計り知れなく大きかったと思います。あまりに多くのことを弟子たちは教えられ、目撃し、経験しました。けれどたった3年間です。身についたこともあれば、そうでないこともあったはずです。
何よりもキリストが一人の人間であり同時に<神>であるという事実は最後まで謎として彼らの心を惑わしたにちがいありません。主イエスが十字架につかねばならなかったことは弟子たちに混乱をもたらしました。キリストが弟子たちを含めたすべての人間の為に十字架にかからねばならないとは弟子たちにとってどうしても合点が行かなかったでしょう。つまり、私が、キリストが十字架にかからねばならないほどの罪業を抱えているとは思えないからです。イエスキリストが十字架に自ら架かることによって人は改めて自らの罪業に気づかされるのです。
弟子たちは女性たちが十字架の場にとどまって、その一部始終を目撃し、イエスの死を見届けるのとは正反対に、その場から逃亡しました。ペトロは、「自分は、イエスの弟子ではない!」と3度ウソをつきました。ユダは主イエスの逮捕の手引きをすらしました。ほかの弟子たちは全く姿をくらましました。やがて、一人また一人とアジトのような拠点に戻ってきた弟子たちに、女性たちが主イエスの復活を口にし始めました。男性の弟子たちは、まずいことになったと思ったと思います。主イエスが蘇るなんて喜べる事ではなかったはずです。けれど復活して弟子たちの前に現れた主イエスは、あれほどの裏切りに、一言も弟子たちをなじりませんでした。なじるどころか、あたかも裏切りなど一切全くなかったかのように弟子たちに「全世界に行って、すべての造られた者に福音をのべ伝えなさい。・・・・」とこの弟子たちに命令しました。
これは主イエスによる全面的な許しの宣言でした、可能性や能力からすれば、これは全くありえない無能力な弟子たちの現実でした。でも弟子たちにはできないから出てゆかないという選択はありませんでした。でも宣教は神の業です。雄弁や饒舌でキリストが伝わるわけではないのです。弟子たちは、神の助けを求め、祈りつつ語る言葉に、神の力を感じました。神がともにいてくださることを身近に感じ取ることができました。ユダヤ人の反対にも、ローマ人の迫害にも耐えつつ福音は人々を捕えていました。やがて数十年でローマ帝国中に教会が存在していました。この混とんと不可能さにあふれた世界に神の力を仰いで、神の愛にすがります。
(2016年03月20日 週報より)