信仰の時を刻む

新年を迎えました。何も17日もたって、いまさらと思う人もいるかもしれません。しかしこれは受け止め方次第でもあります。韓国や中国では旧正月で春節―正月を祝います。今年でいえば2月8日がお正月に当たります。

「門松や冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休宗純禪師の言葉とされる)とブラックユーモアをかまされても喜ぶ人は少ないでしょう。

その点、キリスト者の1年の始まりには、ある種、希望と楽観が込められています。そうした方向の違いは世界と歴史をかく在らしめている神を信じるか否かによるのです。聖書全体の冒頭に天地創造の物語が描かれます。歴史や世界という個人の在り方をはるかに凌駕すると思われるレベルの部分も決して、無限で無制約ではありません。それすら神に造られ、神の支配のもとにおかれているのだと聖書は伝えます。けれど聖書が本当に語りたいのは宇宙の事やはるか遠くの歴史のかなたの事ではありません。<わたしの世界>や<わたしの歴史>にかかわることです。わたしが生きるのは、神が、わたしの生存をよしとして下さったからです。わたしの生の歴史=私の生きた歩みを、よしとして下さるからです。いま実現していないとしても必ず、いつかそう実現するのです。それが神の意志なら。そもわたしが人生を生きることは、私の意志で始まったことではありません。

やがていつの日か、人生は終わりを迎えるでしょう。その人生がどんなに不器用で、足りないものだらけの人生でも、
キリスト者として、信じ続ける人生だった。
信仰の確信を信じ続け、可能な範囲で信ずることの喜びを伝え続ける人生だった。
許しと愛の実践を常に心におぼえ続ける人生だった。
・・・・そんな人生を生きられたらどんなに幸いなことでしょう。

旧約聖書に登場する人物を見ると、いわゆる道徳主義的な<聖人>という枠に当てはまる人物とは到底言い難い人々が多いのです。むしろ取り返しのつかない失敗と愚かさをあらわにしながら、ただただ神をも上げた人々が多いのです。その人の良さはただ1点、神を見上げ続けたことといえること。その一点がその人を生かしたのです。アブラハム・イサク・ヤコブを生かした神。この罪多き人々を生かし、かつ親から子へと信仰を継承した人々。強制や強要では決して伝え得ない<信仰>を伝えていった人々。そこに個々の人生をかくあらしめた神を、本当にかけがえないものとして受け止めているかどうかが試されるのです。
人生は永遠ではありません。というよりわたしたちに残されている人生の時はごく限られているのかもしれない。年老いていようと、若かろうと私たちに残されている人生の時は、今しかないのかもしれない。わたしたちには先々のことはわからないのです。そうであればわたしたちは心を込めて信仰を伝えよう。強要してはなるまい。でも洗礼を受けていない人には一歩信仰を進めるよう祈ろう。迷っている人がいれば、信仰を進めよう。平和・環境・人間の倫理。さまざまに起こりくる出来事の中に、社会の終末的様相は深まるばかりです。今年いっそう確かな信仰の時を刻もうではありませんか。

(2016年01月17日 週報より)

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