福音は人をかえる
人の心の内側には肯定的で積極的な思いが支配的だとは思います。けれど心のひだの奥底には、極端な場合、憎しみや、恨みが、ひそんでいたり、心の痛みとして生きていることがあります。強弱はともかくとして、不当に扱われた心の苦しみは、簡単に水に流されるものではないでしょう。そこで憎しみの連鎖が始まります。それは暴力の連鎖であったりします。虐待も、親から子へ、子から孫へと連鎖します。重罪犯の多くは、幼い頃に虐待を受けた被害者と言われる事もあります。なされた不法や暴力には等分の報復を、というのは世界に共通する一つの感覚です。「曽我兄弟物語」や「赤穂浪士討ち入り物語」などの報復物語にたいして、報復には報復をと言うエンドレスな報復の物語を書くことが可能でしょう。イスラム原理主義テロは中世の十字軍侵略への報復、終戦まぎわのソ連軍参戦はスターリンによれば<日露戦争への敵討ち>になります。
ここにそうした報復への自然な憎しみの連鎖をこえる出来事が伝えられたことがあります。これは実話です。1972年9月から、1983年1月まで約10年間の間に、一人の人間によって、全体で32件の強盗、殺人などの犯行が行なわれました。8人の人々がむごたらしく殺されたのです。事件を引き起こしたのは勝田清孝という人。様々な、職業を転々とし、消防のレスキュウでは何度か表賞を受けていた人です。犯行が10年間に渡ったのは一連の事件を巧妙に画策し、隠ぺいし、逮捕後罪の呵責に苦しむ本人の自白で事件の大要が明らかになったものの、自白なしでは事件は、大半が迷宮入り寸前だったと伝えられました。野獣ですらこれほどの残虐なことは出来ないだろうと思える、固く閉じた勝田の心を開かせたのは、キリスト教信仰に励む、カトリックの女性の出現でした。
この人、来栖宥子さんは8年半に渡って獄中に一千通もの手紙を送り、訪ね、死刑確定した94年1月以降は面会が不可能になる為、勝田を自分の母親の籍に入れ、つまり法律上の姉弟になって、面会可能な状況を作り彼を励まし続けたのです。来栖さんは著書「113号事件・勝田清孝の真実について」の中で、パウロのローマ書の言葉を引きます。
『私たちの内の古き人はキリストと共に、十字架につけられた。それはこの罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは既に死んだ者は、罪から解放されているからである。』
勝田死刑囚は二千年に処刑されるまで、点訳事業に打ち込みかつての殺人鬼は容貌を一変するのです。彼は残る日々をキリスト教信仰を深めることと、点訳作業に集中します。勝田死刑囚は2000年に死刑執行され、カトリック司祭による葬儀が行なわれたのでした。
人は、過去のあり方から、ここまで変えられうると言うことです。人が変えられうるとしたら、キリスト教信仰以外にはありえません。神なしには、人はさして自分自身をかえることなどできないのです。新約聖書には同様の出来事が、次から次へと記載されています。有名な讃美歌 amazing grace はロマンティックな歌などではなく作曲者ジョン・ニュートンが、泥沼の罪の中から救われたたことが直接的に語る回心の喜びを歌った代表的な讃美歌です。犯罪者と言う特別な人々がいるのではありません。何かの衝動や状況で、人は取り返しのつかない出来事を引き起こします。しかし、たとえどんなに凶悪に見える人の心にも、届きうる神の光がある事はなんと幸いなのでしょう。
同時に、勝田死刑囚の犯罪より、過去の日本が起こした戦争犯罪はとうてい比較にならないほど重大かつ大規模です。こちらのほうは被害者がどれほど声をあげても、反省も、償いも避けているように感じます。表面的、言葉だけの謝罪は、ますますアジアの人々を憤激させます。キリストを知ることなしには、罪も自覚しえない、勝田死刑囚とは反対の態度があります。
(2005年05月29日 週報より)