心を伝える
私が福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないならわたしは不幸なのです。
1コリント9:16
上記の言葉は使徒パウロの言葉です。福音を語るときの第一の前提になるのが、語る福音がモノローグ(ひとりごと)にならないように語ることです。かたりかける相手が聞く気持ちもないのに、押し付けがましく語ることは反発だけしか帰ってこないでしょう。さらに福音の内容を相手が受け入れるのか、否定するのかは相手の心の自由の問題であることは大切な点です。いずれ相手との信頼関係が成立してからしか、会話が成り立たないのは何を話すにしても違いはありません。
さらに福音を語ることは、語る側にとまどいをぬぐうことが出来ません。つまり自分などに福音を語る資格があるだろうか、という点です。自分の内側に欠点を感じない人は少なくないでしょう。まして神の言葉を語る資格などありはしないと思うのです。そうしたとまどいを少しも感じない人は幸いですが、そうした人こそ福音を語る資格などないのかもしれません。自分の足りなさ、不適格さを知るからこそ、神を仰ぐのであって、自分こそ神にふさわしい人格だなどという確信を持っている人はむしろ神の言葉を語る資格などないようにわたしには思えるのです。
「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸です。」(口語訳では「福音をつたえなかったら、わたしはわざわいである。」) と言った使徒パウロは、見方によれば最も福音を語る資格などなかったといえるかもしれません。キリスト教迫害者として数え切れない多くの罪なき人々を暴行し、殺害し、それもユダヤ教原理主義者としてそれが正義であると確信しての迫害でしたから、遠慮会釈のない激しい迫害でした。経歴からしてこの人ほど、神の言葉を語るに不適格の人はいなかった。
けれどその<不適格な過去>こそ、神の恵みを知るきっかけとなったものであり、あるがままの自分を知るきっかけを作り出したものだった。伝道は出来るとか、できないの問題ではない、まして資格があるとか、伝え方のテクニックなどではないのです。福音を生きることは単なる私的な考えや決断で選び取ったのではないのです。自分自身の決断でキリスト教信仰を生きているなら、自分の決断でこれを捨てることが可能でしょう。しかし神が過去の取り返しのつかない過ちを、神の恵みの機会に180度転換してくださったのなら、それを自らの決断で再びひっくり返すことは出来ません。もしわたしが、キリストの恵みのゆえに、幸せで平安な日々を与えてくださったと信じられるなら、素直に言葉に出すだけでも伝わります。微笑みひとつでも、人に伝わるメッセージとなるでしょう。人は自分の幸・不幸を、他人へのメッセージとして発信しないわけには行かない存在なのです。あなたの幸せを、発信しないことは、パウロの表現では<不幸>であり、災いなのです。
(2010年01月31日 週報より)