笑う晩年
人生は刻々と時を重ねて、人は成長します。そして人生は休むことなく、その終りに向かってすすんで行きます。数年前に撮った写真を見て、私は驚きました。その時点の顔は既に今の顔ではありません。つまり数年前の顔は、数年でも、それは否定しがたく、数年ぶん、若いのです。それは善し悪しの問題ではありません。心の中では、私は自分の顔も、人生もこれはこれで悪くないと思わないこともありません。でも人生は既にだいぶ前に折り返し点をすぎ、マラソンでいえばその内に競技場が近づくほどの所かも知れません。マラソンランナーも1時間20分前後でフルマラソンを走る切る超一流選手がいれば、4時間、5時間かけて完走だけを目指す人もいます。人生をどう走るかは、自分を最もよく知るその人自身が決めればよいことです。勝敗に一喜一憂するトップランナーがよいわけではありません。
人生はマラソンコースのような1本の線です。必ずゴールがあります。人にはさまざまな可能性がありますし、何を選択しようとその人の自由です。もちろん人によってはさまざまなかかわりや、境遇で、自分が願ったような人生が歩めなかったという人も多いことです。ただ、それだからこそよい人生だったという人もいます。また、人生を振り返ってみると、苦難や痛みの経験が、自分を造り上げた時と思えることもしばしばなのです。人は苦難の中でこそ何かを学び取る能力をもっている存在でもあるからです。
人生で身につける最高のもの一つは、微笑みです。最近微笑むことの出来ない人が急増しています。最近の新聞でもっとも心が痛むことは、ほぼ毎日のように幼い子どもたちが虐待や暴力で死んだという記事が掲載されていることです。どんな子どもたちも美しく可愛いけれど、とくに幼い子どもたちは、これぞ天使!と思えるほどの可愛さです。いま日本の社会にあって、怒りやうらみがガスのように充満しています。新聞には通勤、通学の途中で争いになる暴力事件の増加が伝えられています。ほんの小さな微笑みが危機をこえることができるのに、微笑むことが出来ないのです。
とくに、人生の終りが見えてきた時、そこで微笑むことができるのか。怒りと苦々しさで人生を振り返るほかないのか。その違いは、その人生が何だったのかを決定づけるでしょう。フィレンツェにウフィッツィ美術館というところがあります。中世フレンツェの権力者メディチ家が途方もない財力で名画を数多く集めた美術館です。そのほぼ終りの所に小さなレンブラントの自画像があります。見たところ年老いて、とても貧しいようすが見て取れます。若い時、彼自身も祖国オランダも豊かでした。レンブラントも金に飽かした贅沢をしたようです。やがて年老いた頃、国は斜陽になり、彼の妻は他界し、息子も死に、財産も無くなり、彼は孤独の身に落ちていきます。しかし、レンブラントは人々が気に入るような絵は描きませんでした。彼が夢中で描いたのは聖書の題材です。キリストの十字架の場面に彼自身を描き込んだりもしました。ウフィッツィ美術館の終りに出てくる自画像は微笑んでいるように見えます。
過去の成功も苦難も、病気や親しい人との別れも、人生の一断面です。人生はやはり自分のものでありつつ、自分のものではありません。神が支え、導き、造り出しているのです。いくら人が、こうなればいいのに、とか、彼は、こうあるべきだと考えても、とうぜん、人生の状況や他人は、こちらの意向とは無縁に動いて行きます。しかし、長い時間をかけながら、人生は神の意志が実現して行くことでしょう。そう折り合いをつける時に、人は笑うことができます。神が与えてくださった人生に生かされている。それはつきるところキリスト教信仰をどう受け入れるかということになるでしょう。
(2006年02月26日 週報より)