小さなアパルトヘイト
数日前の新聞投稿欄で、ある人がベルギーだかのヨーロッパにおける以下のような経験を紹介していた。向こうでの福祉関係か何かの会合において、日本の「女性専用車両」のことを述べたところ「それは、30年前のことですか。それとも50年前のことですか?」と真剣に聞き返されたという。そして彼女(だったか)は、恥じ入りながら「いや、現在の日本のことです。」と答えたところ、かの人は即座に「それは、アパルトヘイト(隔離主義)そのものです。」と述べたという。
私も10年ほど前に、フランスを一人で遺跡巡りした時、向こうの考古学者から「どれほど、こちらに?」と聞かれ、「いや、私の夏期休暇は3日間なので。」と答えたときの彼の心底驚いた表情、そして直後のこれまた憐れむような表情が心に焼き付いているので、彼女の心境は察するに余りある。
なぜ、「女性専用車両」などというものが、21世紀の日本に存在するのか?
それは、日本では成人男女が一緒だと女性が満員列車に安心して乗車できないからだ、という。
何ということだろう。単に女性を隔離して、一時的に安心できる状況を作り出したとしても、根本的な解決には何にもならない。解決すべきは、日本人男性の性差別意識であり、満員電車で破廉恥な行為を行う男性の意識と、それを是として許容している日本の男性中心社会である。
「夜道の一人歩きは、危険です。」と看板に書かれてある。
被害者である女性の行動を制限する前に、加害者である男性の行動を徹底的に取り締まり、女性が一人でも安心して歩ける社会を作るべきであろう。問題の本末が転倒している。
自分たちの都合が悪くなるので問題の根本的な解決は先送りにし、被害者救済を名目に、被害者に対する不当な抑圧、批難、隔離が継続している。同じようなことは、かつて「シルバーシート」と言われて、現在は「優先席」と呼ばれているものついても言える。
非優先席である普通の座席から埋まっていき、最後に仕方なく居心地悪そうに席を占められる「優先席」。本当に座席を必要とする人々が、車両の片隅を求めて集まってくる不自然さ。なぜ全ての座席が、「優先席」とならないのだろうか?
確かに女子大や障碍者施設など、必要とされるものも数多い。しかし、そうした最小限度の必要性を超えて、単に社会の多数者の都合によってなされている「一時的隔離」が横行していやしないか?
世界有数の経済大国と言われ、「美しい国」とやらがスローガンとなるこの国で、私たちの性差別意識と福祉意識の貧しさを象徴する列車が、今日も、そして明日も走っている。
五十嵐 彰 (2006年12月10日 週報より)