見方を変えて世界を見ると
一冊の旅行記をまた読み返しています。「アウシュヴィッツで考えたこと」宮田光雄著、1987年、みすず書房刊がそれです。著者は1983年に当時の東ドイツの教会からの招きを受けて、東ベルリン、ライプチッヒその他当時の東欧圏の国々を訪ね、それを一冊の本にまとめあげたのです。この本の出版はベルリンの壁が崩れる2年前のことです。ここに描かれているドイツの人々やドイツの教会は、それなりに安定した当時の体制の中で生きています。キリスト教とは相容れない体制の中で引き起こされる不自由さ、差別すらも引き受けて、そこに身を定めて、そこで自らの生きかたを貫こうとしている信仰の姿が浮き彫りにされています。この本が出版されて、数年後に東ドイツばかりか、ソビエト連邦と東ヨーロッパ全体が崩壊するなど夢にも思えない現実のなかで、信仰に生きる人々の姿が描かれています。あらためてその後のドイツや東欧に起こった変化の大きさに驚嘆させられます。
ドイツやオーストリアのあちこちを歩いていると戦災の跡をたどることが出来ます。ウイーンのシュテファン大聖堂も爆撃を受けて黒ずんだ跡を消すことが出来ません。まだ行ったことはありませんがドレスデンは徹底的な爆撃で町の大半が崩壊したものの、崩れた建物一つ一つのカケラを拾い集めて以前の形を可能なかぎり建て直したといいます。ですから写真で見る限り町全体がかなりすす黒いのです。かつてのナチズム支配、戦争による廃墟、戦後の非キリスト教的政権支配。その中でキリスト者である人々は現実の社会をどう見つめてきたのだろうか。
特にナチ政権時代さまざまな対応が人々には見られた。まずはナチ協力者達。すすんでナチズムに協力した人々。やむなく協力させられた人々。協力するにしても、抵抗するにしても、否定しがたい苦々しさが人々の心を覆いつくしたに違いないでしょう。そして神を信じた人々にとって、問わねばならない問いがあったでしょう。そうした社会で神が<どこ>にいるのか? という重い重い問いです。それはアウシュビッツであろうと、ヨーロッパ全体では1,000箇所にもなった強制収容所の中で人々が問う問いだったでしょう。
けれどあの強大であまりに暴力的な体制に、抗議し抵抗し、同調することのなかった人々がどれほど多かったかもあちこちでたどることも出来ます。つまり神はここにおられる。神はこの心に語られる。神は祈りに答えられる。そう信じ続け、行動し続けた人々の群れがありました。思えば聖書はどこに神がいるかとしか見えない世界で、なお神の語りかけを聞き続け、信じ続けた人々の証言集と受け止めることができます。
信じられない世界で神の実在とそこに行動する神を仰ぐこと。それは最も人間らしい行動と取ることも出来ます。自分自身の感情のままに行動することは正直といえば正直です。でも予想できるかぎり希望の見えない世界に、なお希望を見つめようとすることは、信仰者しか出来ません。そうしてベルリンの壁は見事に姿を消した。ヨーロッパは自由の身となった。神があられることを知らない人は大切なしるしを見失うのです。
(2012年07月01日 週報より)