キリストの復活
宗教離れがいっそう進みつつある時代です。むりからぬことがあまりにも多く起こったからです。オウム真理教をはじめとするカルト宗教があちこちで問題を起こしたり、アメリカにおける原理主義キリスト教が、キリスト教の中心的課題から外れた進化論や、中絶、またイラク戦争支持を、非妥協的かつ声高に主張することで、それがキリスト教会の立場のように受け止められたのです。一般の教会までが、それらと同一視され、「宗教はこわい」と言う印象が、「教会もこわい」ととられることに立ち至った一面があります。とはいえ、無宗教である所に、ほんとうに人間らしい生き方がある、ということではもちろんないでしょう。
人間は時折、<魔がさす瞬間>があります。そのときに常識や理性という心のブレーキはどうでもよくなってしまうのです。罪は人を魅惑し、のみ込んでしまうのです。そうして常識にたけたはずの、学問も身につけた人々が、驚くほど愚かなことをやってのけます。そしていったん人間性が転落しはじめると、留めるものは無いのです。でも、本当は、だれもその人を見下すことなどできません。無防備な心は、罪に抵抗不可能だからです。けれど、少なくも、その瞬間信仰者であった人は、心のブレーキがかかるのです。
今日は復活日です。弟子たちのうち一人として主イエスの復活を予測した人はいませんでした。主の復活を初めて知ったのは、女性の弟子マグダラのマリアでした。でも、それを聞いた男の弟子たちは、とうてい彼女のいうことを信じませんでした。そもそも彼女は、キリストに出会う前は、ひどく心やんだ、見捨てられた女性だったのです。キリストの死という悲劇の中で、もとの病気が舞い戻ってきたくらいにしか受け止められませんでした。でも復活したキリストが時には個人に、時には集団の中で、出会っていったのです。刑死し埋葬されたはずのキリストが、復活して弟子たちに再会を果たした。その出来事から、弟子たちは彼らの主が、あらためて誰であったのかを理解したのです。弟子たちは、嘘を真実のように丸め込むことのできるような器用な人たちではありませんでした。そう言うことで彼らがなにか得をすることでもありませんでした。
そういう弟子たちは見証人(eye witnesses)と呼ばれたのです。この全く予測不可能な出来事に接して、疑いや不信は吹き飛んだのです。まさに驚天動地の出来事としかいうことができなかったでしょう。
神を信じる人も、信じない人も、それぞれ自由に生きます。人生をどう考え、どう生きるかは、それぞれに選びとるのだから、それは個人の自由です。けれど、どちらにしても、あまり分かり切ってしまったような顔はしないほうがよいと、私は思います。キリスト者にしても、キリストがほんとうに復活したのなら、人は昨日までのような生き方をすることは不可能になるでしょう。こちらの予測をはるかにこえる力をふるう方を前にして、キリスト者であるのか、ないのか境目の分からないような振る舞いは、もはや出来ない。またこの際、奇蹟は分からんとか、嫌いだという言い方もやめよう。そのくらいの力を持つ方の力によって、やっと、われわれは、少し理性を保っていることができるだろうから。今こうして生きていることも、ある種奇蹟のようなものかも知れない。多少人生にはまだまだ満足できていない部分もあるかも知れない。でも、この方がともに歩んで下さるなら、多少の不満は耐えることができる。否、人生に大きな希望を見い出すことだってできる。弟子たちが復活の主に出会った時、どんな顔をしただろう。戸惑いの放心状態がしばらくあって、爆発するような喜びがはじけ、そして彼らの表情、姿が、一変したに違いない。本気にキリストの復活に目をやる時、人は変わることができるはずだからです。
(2005年03月27日 週報より)