今日を喜ぶ

人はとかくいつも健康であること、幸せで満ち足りていることを当然とします。あたかもそれが当然のものとして、自分の日常が成り立っていると考えます。しかし何事もそれが当然であるとすると、とかく日々の営みの中で周囲の人に感謝したり、ことさらにやさしい言葉をかけることが欠けてくるかもしれない。結果として私たちの日常を軽んじる結果となってしまうといえます。

我々こうしてこの世に生を受けているものは、若者は別としても、この世に長く生を受けているわたしなどは、この生を受けているがゆえに、いつでも病に倒れる可能性は否定できません。空を飛ぶ飛行機は常に点検を受け、万全の備えをして空に飛び立ちます。しかし百トンを超すジャンボジェットは自動車よりも安全な乗り物と言われますが、空中を飛ぶかぎりは墜落の可能性がゼロではありません。

だからこそ我々自身も、身体の定期点検はもちろん、健康を保つための運動や食にも気を付けながら、日々の歩みを充実させようと努力します。わたしも毎日、朝晩60分エアロバイクに乗ったり、先週は永山から教会まで、また八王子駅から教会まで、片道ですが歩きました。とはいえそれでも空中を飛んでいる飛行機同様、つぎに何が起こるかわからないという見通しのなさを飛行している状態に変わりはありません。

そうであればこうして大空を飛行している嬉しさ、現在というこの時を、大切に過ごしたいものです。それは単なる刹那主義とは違ったものです。時はおそるべきスピードで過ぎ去ってゆきます。しかし私たちの心の平安や、周囲の人々から送られる愛や慈しみは神のたまものにほかなりません。神が他者を変え、そして私を変えてくださったことで、人生は豊かなものとなり、わたしたちは神の視線の中で日々を過ごしてゆくことができます。たとえ生の終わりが近づいたとしても、神の手に抱かれての雄飛だとすれば、終わりはいずれ神の御許、満ち足りた思いで委ねることができるだろう。

最近電車に乗ると「人身事故による電車の遅れ」に遭遇します。たまにしか電車に乗らない私が遭遇するのです。あまりに多くて東京では常態化している感があります。どうしてこんなに恐ろしいことが<日常化>するのでしょう。これは異常事態です。いつこんなに国に日本がなってしまったのでしょう。これだけ多くの人々をそこまで追い込んでゆく労働環境。しかも同じ電車に乗り合わせた人はその死を悼むのではなく、電車の遅れだけしか思い至らない心の狭さ。これだけ多くの人が追い込まれるということは、じつは、やがてわが身の不幸!かもしれないのです。
いつ終わるかもしれないこの人間の生とは、本来、神の手にあることなのではないでしょうか。神の手にあるからこそ、いつかわからない。つまり、いつ終わってもいいのです。問われるべきは、私の人生は確かに神の手にあるのだろうか?それとも?という問いです。でもキリスト者であれば、それはまず第一歩の問いでしょう。わたしたちの生は限りなく神の御手にあるのです。たとえ他人の評価がどうであれ、わたしたちは神によって生かされ、神によって飛ぶのです。あなたは今日、この日を喜んで飛んでいますか?

(2015年11月15日 週報より)

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