プレゼント
「贈り物」ということについて考えてみよう。あるいは「与える」ということの意味について。
ちょっと難しくいうと、「贈与」ということについて。
ある人(A)が、別の人(B)に、ある物(C)を贈る。お中元でもお歳暮でも、あるいは誕生日でもクリスマスでも何かを記念する日に贈るもの。
これが純粋に「贈与」であるためには、贈られた相手(B)が贈った相手(A)に対して、同じようなものを送り返してはならない。それでは、一方的な「贈与」ではなく、単なる「交換」になってしまう。そうすると世にはびこる様々な「贈り物」(花束やお菓子の詰め合わせなど)は、実は「贈与」ではなく、「交換」に過ぎないのではないかということになる。バレンタインのチョコも、ホワイト・デーとやらの何かが付随している限り。あるいは単なる手紙や年賀状あるいはメイルのようなものですら、送り手が返答をどこか期待し、受け手は返事を書かなければと思う限り。
こうした「交換」は、何も実物を伴うものばかりとは限らない。贈り物を受けたということによって生じる精神的な負担、負い目、引け目などについても同じことがいえる。あるいは非モノである「愛」といった感情さえも。
(A)が(B)に(C)を贈ったことによって、(B)が(A)に「ありがとう」と感謝の意を表しなければならないとしたら、それは(B)は(A)に精神的負債を負ったことになるし、(A)は何かを与えたことによって(B)にそうした気持ちを抱かせたという「反対給付」を得たのである。全く身も蓋もない言い方であるが。
ここに「贈与」の成立不可能性が明らかになる。すなわち「贈与」が「贈与」として成立するためには、「贈与」は「贈与」として認識されてはならないのである。贈り手にとっても、受け手にとっても。プレゼントがプレゼントとして認識されるや否や、たとえそれが贈り主の純粋な気持ちであったとしても、一切の返礼を期待しないものであったとしても、受け手が「プレゼント」を受け取った瞬間に、それは純粋な贈り物にはならなくなってしまう。
私たち、人間がお互いにやり取りしている様々な種類のモノの交換、あるいは情報のやり取りですら、こうしたパラドックス(成立不可能性)から逃れることはできない。
しかしただ一つ、純粋な贈り物が贈り物として成立するものがある。
それが、神からの私たちへの愛である。そしてそれがかたちをとって現されたものが、「イエス・キリスト」なのである。
私たちに与えられた純粋な「贈り物」。何の見返りも、感謝の気持ちも期待していない、純粋な意味で一方的に与えられた「プレゼント」。 送り返すといった可能性が最初から絶たれている「贈り物」。この世に成立した唯一の「贈与」の意味を、贈られた私たちは深く思い巡らさなければならない。
五十嵐 彰 (2010年01月10日 週報より)