水を飲ませてください

「水を飲ませてください」(ヨハネ4 : 7)
この何でもないフレーズが心に引っ掛かっている。ここには、私たちが考えるべき多くの事柄が含まれている。

普通他人からこうした依頼を受けたら、どうするだろう。
依頼する側は、喉が渇いている。だから水を飲みたい。しかし水を持っていない、あるいは水を手に入れる手段を有さない。
依頼される側は、特に喉が渇いているわけではない。だけど水を持っている、あるいは飲むべき水を手に入れる手段を有している。
ここに見られる両者の関係は、圧倒的な優劣関係、前者が下位で、後者が上位という構図である。依頼を受けた側が依頼に応じるか(「どうぞ、この水をお飲みなさい」)、あるいは拒否するか(「あなたにあげる水などはありませんよ」)、それはひたすら依頼された側の気持ち一つ、一方的に主導権が握られている。

しかし聖書が示す事柄は、私たちが想定した応答のいずれでもない。
「なぜ、あなたがわたしに頼むのですか?」
ここには依頼する側と依頼される側が、飲み水の欠如というある特定状況における優劣関係以外の要素、社会的な相互関係、もっと端的に言えば、民族差別(ユダヤ人のあなたがサマリア人のわたしに)と性差別(男のあなたが女のわたしに)が重複して作用している場面が浮かび上がってくる。

そしてここからイエスの応答は、驚くべき展開を示す。
イエスの言われる「水」は、ここから飲んではまた渇く「水」ではなく、人の中から湧き出る「生きた水」のことに転じている。依頼を受けた女性は、当然のことながらそうしたことには思いが至らず、ひたすら「井戸の水」を念頭に置いた受け答えとなる。当然のことながら両者の対話は、すれ違ったままチグハグなものとなる。しかし対話を繰り返す中で、女性も次第にことの意味を悟るようになり、最後には確信には至らないまでも「この方がメシアかもしれません」という告白をすることにまでなる。

最初は圧倒的に「与えられる」という劣位に位置していたかに思えた存在が、実は豊かな心の糧を「与える」という優位に位置するという鮮やかな逆転構図。
毎年秋に調布で行なわれている「障碍者問題を考える集い」。ここでなされる様々な当事者の発言を聞くたびに、こうしたことが実感をもって確認される。

大阪の釜ヶ崎で暮らしながら野宿者を支援している神父の言葉が、新聞で紹介されていた。

例えば「ルカによる福音書」に「貧しい人は幸いである」とありますが、貧しくて家がない人は幸せなんでしょうか。「貧しい人は、神からの力がある」というのが私の訳です。

本田 哲郎2008年4月4日『朝日新聞』(夕刊)4面「弱さの中ではたらく力」

五十嵐 彰 (2008年04月27日 週報より)

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