ひとつの祈り

今は改装されて、カラオケ屋になっているその建物は、かつては大きなスポーツ用品を売る店でした。ある晩、よる10時ごろ犬の散歩の折に、奇妙な光景に出くわしました。翌日のスポーツ店開店を前に社員とアルバイトの大学生らしい若者たちが、駐車場の敷地に円陣を組み立ったまま、手をつないで、黙祷の祈りを捧げていたのです。教会で祈る姿は見慣れたものですが、世の中の人が祈る姿を見ることはまれです。みな一様に真剣な面持ちで、ふざけた様子の人はただのひとりもいませんでした。すでに夜10時を過ぎ、多少の寒さを感じる中で、手をつなぎ、目をつむって、若者たちは祈るように立ちつくしていたのです。彼らは大半が20歳代前半の若者のようです。扱う商品はスキー用品、ゴルフ用品というレジャー時代の先頭をきる商品です。そこに<祈り>とは・・・。

日本では、祈りさえ自己実現の手段です。「もっと金が儲かりますように。」商売繁盛、金儲けにも形式的信仰心が利用されます。けれどそこでは<神>が重んじられれるのではなく、常に「わたしが・わたしに・わたしの」という1人称こそ肝心な動機です。けれど<わたし>を最優先しているときに、自己の確立は実は程遠いといえます。エゴイズムは究極的に他者を傷つけ、回りまわって自分を傷つけるものでしかないのです。
興味あることに自分を捨て、イエスキリストに救いを求めた人々が、主イエスによって「あなたの信仰があなたを救った。」といわれる場面があります。(マルコ9:22)(ルカ7:50、17:19、18:42)自分を見ることから目を転じて、イエスキリストを虚心に見つめるときに、逆に自己を立てあげることが出来ると言うことです。

冒頭の若者たちが祈った祈りは残念ながら実ることがありませんでした。その熱心さにもかかわらず、店は客を引くことがありませんでした。通りすがりに見たところ、客はいつもまばらでした。きっと店の経営に必要なのは祈りでなく、経営学、経営術だったのでしょう。
人が人間としていかに生きるかを求めるときに、キリストの救いは根源的になくてはならない生の土台です。信仰と祈りはここにこそ、欠かすことができませんし、人間らしい生き方はここから息づきます。

(2009年07月05日 週報より)

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