主の弟子の一人として

しばらく前、芸術新潮の特集<『遠藤周作で読む』―イエスと12人の弟子―>と題する美装本を戴いた。ミケランジェロ、エル・グレコ、カラバッヴァジオなどの古今の名画家たちが描いたイエスの弟子たちの受難画である。大切に繰り返し見入っています。主イエスには12人の弟子がいた。思えば難しく問題に満ちた人々を主イエスは周りに置かれたものだ。何らかの問題を持つからこそ主イエスが必要だった人々。もともと問題のない人などいるはずもない。自分で「わたしは問題がない人」と思い込んでるにすぎないのだ。

ところが主イエスの弟子の中で「主イエスの愛しておられた者」と呼ばれた人がいる。あのダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵の中で主イエスの隣にいる若く、ひときわ美しい弟子―ヨハネ。確かに主イエスは、ことあるごとに、ペトロとヤコブとヨハネと行動を共にしたと福音書に書いています。「主イエスの愛していた者」とはヨハネ福音書の言葉だから、自分を指して書いた言葉と受け止めることができる。でも最後の晩餐の席上で主イエスは<この世から父の御許へ移るご自分のとき時が来たことをさとり、世にいる弟子たちを愛してこの上なく愛し抜かれた>(ヨハネ13:1)のでした。

つまりヨハネだけが、主イエスによって特別に愛されたとは考えられない。ダ・ヴィンチの絵で意外なのはヨハネの隣にいるのはイスカリオテのユダである。ヨハネが座を占めているのは、ほぼ中央であるから主イエスはヨハネとイスカリオテのユダとの間に少なくとも席次で序列をつけることはしなかった。席次、序列を気にしたのは弟子たち自身であって主イエスではなかった。

実は12人のうちの一人とされたこと自体が特例中の特例だった。そこには神の子である主イエスの特別な思い入れが12人には寄せられていたことだ。後に主イエスが十字架にかけられ彼ら弟子たちが混乱することは主イエスにはすでに見通されていた。ユダも含め裏切りを超えて立ち直ることも期待されていた。そこまで深い愛に支えられて彼らは弟子として立てられたのであった。確かにヨハネは特別の愛を主イエスから注がれていた。しかし愛はそれぞれに特別なのだ。弟子たち全体が、個々に特別な愛で弟子たち全体に注がれていた。

我々はこの日本で主イエスの弟子とされている。それこそ真正で、本物の愛にとらえられている。

牧師 小枝 功(2022年9月25日 週報の裏面より)

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