創造論の勘違い
生物学では、「似ている(類似)」ということについて、「相似(アナロジー)」と「相同(ホモロジー)」という二つの概念で説明する。
「相似」とは、機能(役割あるいは見た目)は同じでも、内部の構造(仕組み)が異なることをいう。例えばコウモリの翼と昆虫の羽は、空を飛ぶという機能的要請から同じような形態をしているが、その構造・仕組みは全く異なるのだ。コウモリの翼は哺乳動物としての前足が発達してできたものだが、昆虫の羽は外部骨格である腹部の背板が伸張してできたものなのだ。
それに対して「相同」とは、機能や見た目は異なるが、内部の構造や仕組みが同じものをいう。例えばコウモリの翼と人間の腕は、全く異なる機能を持ち全く異なる外見を有するが、哺乳動物の前足という生物構造上の仕組みは全く同じ(相同)なのである。これはDNAレベルの遺伝子配列が同じであることを意味する。
だから(とここでいきなり話しが飛躍するが)、人間の体すなわち前肢を有したまま翼がついた生物(天使)や動物の四肢に人間の上半身がついた生物(ケンタウロス)などは、生物学的には有り得ない、想像上の存在としか言いようがない訳である。
生物学的な進化論に対して、創造論なるものが言われる。両者は相容れない、対立した論であるかのごとく説明されて、それが信じられている。
一口に創造論といっても、文字通り1万年以内に神が直接的にこの宇宙、地球と生き物を創造したと考える原理主義的な「若い地球説」から、修正を加えた「漸進的創造説」や「インテリジェント・デザイン説」、「進化的創造論」まで様々である。しかしこうした創造論が議論されているのは、あくまでもキリスト教の枠組みの中だけで、真っ当な生物学や地質学の学問世界(学界)でこうした事柄が議論の対象となり論文が執筆されるようなことはないだろう。
両者は、既に論争としての体をなしていない。というより両者が論争となりうる同等のレベルにあると考えていること自体に何か根本的な考え違いがあるのではないか?
イエスはサマリアの女性に「水を下さい」と頼んだ。そしてさらに「生きた水をあなたに与える」と言われる。このように言われたサマリアの女性は、「この井戸は深くて、汲む物を持たないあなたが、どうやって水を汲むのですか?」と全く訳が分からない。イエスが「私が与える生きた水は、あなたの中から湧き出る」と言っても、まだ「この井戸から汲まずにすむようにして下さい」とイエスの言われる言葉の意味が理解できずに勘違いをしたままである。
地質学的に神がこの世を「創造」しなくても、生物学的に神が生物を「創造」しなくても、神がこの世の、私たちの「創造主」であることを否定することにはならないだろう。そして私たちが、神の「被造物」であることを否定することにはならないだろう。
私たちに「生きた水」を与えられたイエスの示すキリスト教とは、生物学的な進化論を認めることで崩壊してしまうような安っぽいものではないだろう。
しかし進化論を認めた、あるいは創造論を否定したといった表面的な言葉に惑わされている(勘違いをしている)キリスト者は、まだまだ多いようだ。
五十嵐 彰 (2015年05月10日 週報より)