生きたことは無駄でなく・・・
人生を歩むかぎり、私たちは様々な人々とかかわりを持ちます。新しい友が与えられ、人は互いにその像を相手の人生にむすんでいきます。キリスト者であれば、この人生にキリストの像を心に結んでいくのですし、自分の像を親しい人々の中にむすんでいきます。よき像(すがた)か、悪しき像(すがた)かは受け取る側によるかもしれません。それでも人とのかかわり合いに生きることは私には嬉しいことです。人は他者の心の中に生きつづける事になるからです。やがて、いっさいの地上の係わり合いは、死によってピリオドが打たれるのです。だからこそ、キリスト者は永遠の世界を信じるのです。それでも地上の生涯に終わりが来ると言うことは、それまで心をこめて築いてきたものいっさいが、遮断されてしまうことであり、未完成のものとして手離さなければならない虚しさに直面することです。結局<人生とはむなしくはないのか?>そうした疑念が私たちの心をよぎります。途方もない大勢の人々が心を病み、また自死に誘われるこの時代。人はどう生きるべきなのか、小学生から高齢者まで、悩みに悩むのです。真剣な人生をと願えば願うほど、人生のむなしさはつよまるのです。
避けがたい終わりは必定の、しかも、それが明日かもしれない人生を<むなしい>とすると、そこから逃れ出る人はだれもいません。だれかが、確信をもって、そうではないのだと言ってくれなければなりません。そうです。キリストの弟子であった使徒パウロは高らかに次のように言います。
こうして私は、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。・・・たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。
フィリピ2 : 16-17
かつてパウロは厳格なユダヤ律法主義を奉じ、これに反対するキリスト者を、その存在すら抹殺しようとしていました。崇高なる教義の果てが、殺害と暴行とは、あまりにもばかげたことでした。神に見出され、引き上げられた人が、神の名において、他人を傷つけ、殺害することに、意味を見出せるはずはないでしょう。生まれながらのサディストならともかく、きちんとした生育と教育を受けたパウロが、他者を抹殺することに納得できるはずはありません。悩み苦しむ中にパウロは反対者であったキリスト教徒の中に真実を見出したのです。キリストの福音を生きることで、パウロは人生のたとえようのない虚しさにピリオドを打つことができたのです。
フィリピ教会の人々にむかって「非のうちどころのない神の子として、世にあって輝く」と書きおくりました。美しい表現です。神の子として輝く・・などと言われるとあまりにも遠い気もします。でも、神の前に生きようと志すことで、自分なりに、ささやかに、きらめいて生きていけるような思いがします。
ユダヤ教は優れた宗教でした。そこにかかげる正義は決して間違っていなかったでしょう。しかし人間の正義は行き着くところ、他者の抹殺でしかなかったかつてのパウロの生涯。いまは180度その人生を転換させられて、人を生かし、喜びを共にし、人生の虚しさを越える生きる充実感にパウロは満ち溢れて歩む生涯を生きたのでした。投獄も、迫害という恥と苦しみの経験すら、そこから逆に神の働きが拓かれていくきっかけでさえありました。パウロをとおして、人生は無駄ではないと信じられます。わたしの人生はむなしくない。あなたの人生もむなしくない。神が、あなたを有用に用いるからです。
(2007年07月29日 週報より)