健やかに生きるため

その昔、といっても1930年代。由木のキリスト者の人々が伝道のために様々なお宅を訪ねた。当時、いわゆる精神病院は多くなく、心病んだ人々は座敷牢に閉じ込められることが多かったようです。時代は戦争の時代、心病んでまともに戦場に出られない男や、銃後の守りに徹しきれない人々は、人間とは見なされず、座敷牢に閉じ込められていた。汚れるままに放置され、多くはひそかに病死して行ったようです。様子は悲惨だったのです。キリスト者の人々は、彼らをおぶって、風呂にいれ、食事を与え、いつくしんだ。そうする中から奇跡的に癒される人々が次々と起こされた、と聞きました。

マルコ福音書に、墓場に住んでいた悪霊につかれたゲラサの人が、主イエスに癒される記事があります。その人は墓に住み、昼も夜も大声で叫び、鎖も足かせも引きちぎるほどの力を持ち、石で自分を打ちたたいて、血だらけになっていた。みるも無残な姿だっただろう。彼らはとても普通には見えなかった。やがて主イエスが彼らを癒したとき、彼らを苦しめていた悪霊は主イエスに、豚に乗り移ることを求めた! やがて悪霊は2,000匹の豚に入り、その豚たちは、崖を駆け下りて、湖になだれこみ、溺れ死んでいった。住民達はそのことでイエスに怒りを表し、イエス一行の退去をもとめた・・・彼らにとって一人の人が癒されたことより、失われた豚のほうがずっと大切だった。

社会というものは人間の価値より、金銭の価値のほうが先行するもののようです。主イエスによって正気とされたゲラサの墓の住人は、まともなはずの社会の狂いにたまげたことでしょう。戦場に出て、慰安婦を相手にできる日本男児こそ、まともな日本人。撃墜されたB29の乗員を鋤(すき)や鎌(かま)で狩り立てるのが銃後の務めを果たす立派なニッポン人。そうした社会に適応できずに心病むほうが、むしろ正気といえるかもしれない社会。
ふつう人は学校に行き、学問を納め、職について、日常生活を築いてゆきます。そうしてゆく人がまともで、そう出来ない人を LOSER 扱いします。原発事故で20万もの人々をなお不便で狭い仮設住宅に押し込み、原発は再稼動。日本は名だたるプルトニウム保有国と聞きました。その先にあるのは核兵器の製造以外には使い道のない代物です。世界で唯一の被爆国が、核兵器の製造というオプションを捨てきれない狂い。

思えば、個人も、社会も、国家でさえ、100%正義で、健やかと言うことは、ありえないでしょう。自分自身、こころもからだもたしかに健やかでありたい。痛み苦しみから解放されたいと思います。健康は与えられるものより、獲得してゆく面も少なくありません。それでも病んだ部分を持つことは避けられません。社会や国家も、そうした部分があるに違いないのです。会社や職場に適応できることは大切です。ただリーダーシップの行方次第で、適応にも困難が生じる場合もあります。
先週、日本のある企業が台湾に大量破壊兵器の部品輸出で摘発されたという新聞報道がありました。会社に適応して大活躍できるのも幸せですが、むしろ戦力外通告を告げられる企業戦士も少なくありません。それは本人の能力ややる気とは別の会社の都合と論理に基づくのです。それは世のならいであって、そこから始まるもう一つの生きかたを探ればよいのです。いずれにしてもキリストの弟子として歩むことこそ究極の健やかさへの原点です。

(2013年06月16日 週報より)

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