もちあげられたり、貶(おとし)められたり
旧約聖書の律法の書の最後の文章は次のように書かれています。
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとその家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇蹟を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。
申命記34:10-12
モーセはイスラエルの歴史の中で突出して偉大な人物で、民族としてのアイデンティティーも持ち合わしていなかった、奴隷の集合体でしかなかった人々をまとめ上げて、エジプト脱出を成し遂げたイスラエル建国の父とでもいえる人でした。ところが神はこの偉大なモーセを約束の地に入ることを許しませんでした。時にモーセは120歳。臨終の床のまま、神はモーセを約束の地が見渡せるピスガ山の頂にみちびき「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこへ渡ってゆくことはできない。」(申命記34:4)
死直前のモーセに、ここまで大勢の群集を率いてきた労に報いることくらい、いくら神といえどそのくらいのことはしてもいいのではないかとおもえるのですが、神は<あなたはしかし、そこへ渡ってゆくことはできない。>と断言します。その理由が民数記20章に書かれています。約束の地の入口に近いカデシュバルネアまでモーセと民は短時日で到達できたのです。しかし「水がない、食糧が足りない、荒野の旅は不便なことばかりだ。」と民たちの不平不満はとどまることがありませんでした。たしかに水がないことには砂漠の旅は不可能です。その時、神はモーセに向かって「あなたは杖をとり、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かってみずをだせとめいじなさい。」・・・「モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。」
しかし神は続けます。『主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちは私を信じることをせず、イスラエルの人々の前に、私の聖なることを示さなかった。それゆえあなたたちはこの会衆を、私が彼らに与えるといった土地にみちびきいれることはできない。」』
この一件でモーセは約束の地に入ることができなかった。
モーセほどの指導者になれば「一生懸命やっています」では済まされないことは多くあったのでしょう。あれだけ神の奇蹟的な出来事を経験し、奴隷という立場から解放され、神の恵みを経験したはずの民たちは本能的な欲望のままに、時にはモーセに向かって反乱まで起こす状態でした。モーセが「もうやってられない」と立腹して、<岩に命じよ>と言われたはずなのに、こみ上げた怒りに任せて<岩を二度、力いっぱい打ちすえた>としても無理からぬところです。しかしモーセはそうしてはならなかった。ここはモーセが神の権威を見せるときであって、指導者として権力的に、暴力的にふるまう場ではなかったのです。
それはモーセが約束の地に足を踏み入れることさえ許されないことだった。しかしモーセという人は若い時からカッとしやすい性格だった。40歳の時、ヘブライ人を虐待していたエジプト人を殺してしまったのも、その性格からのことでした。でもそのモーセをエジプト脱出の使命を与えたのは、ほかならぬ神でした。全部わかっていて、それでもモーセを用いる神がいます。モーセの使命は民をエジプトから脱出させ、かつ荒野を超えさせることでした。ですから約束の地に入るかどうかは問題ではなかったといえます。
人は弱さも限界も持ち合わせます。でも何もかもわかったうえで神がこの歩みを見守ってくださるのであれば、安心して歩んでゆけばいいということになる。
(2014年07月20日 週報より)