喜びと賛美と
人間は成長するにつれて、様々な表情をつくることができます。ポーカーフェースというのがあります。トランプでポーカーをする時、手の内が読まれないように、良いカードが来ても苦虫をつぶしたような表情をし、悪いカードが来ても涼しい表情でやりすごすのです。私はカードゲームは苦手です。手の内をすぐに表情に出してしまいますから。(その点、私の連合いは巧みです。彼女はいつも勝者、私は敗者です)
とはいえ、日常生活では私も実際の気持ちと、顔の表情を違える離れ業が少しはできるようになりました。日本語のなかには「作り笑い」という言葉があります。顔では一応笑っていますが、心では笑っていないのです。「失笑」「笑殺」「笑止」笑えない単語が辞書には次々と出てきます。
一方で「こぼれるような」笑いを見ることができます。生まれて三ヶ月目に入った莉音ちゃんは最近良く笑います。つくる必要のない笑い。嬉しくて、満ちあふれて、こぼれ出すような笑いです。微笑みはドラマになりにくいと思っていましたが、おなじみ「微笑みの貴公子-ペ・ヨンジュン」という活字が新聞の紹介に書かれています。ほんの数分ですが、<冬のソナタ>チラっとのぞいたことがあります。登場人物たちは、微笑みどころか、どこからそんな涙が出てくるのかと思うほど、ドド-ッと涙を流しているではありませんか。やはり悲しみ、怒り、嘆き、恨み、憎しみこそ、おとなにとってむしろ支配的なのだろうかと思いました。
主イエスは「幼子や乳飲み子の口に賛美を歌わせた。」(マタイ21:16)まだ言葉も話せない乳飲み子、幼子。その笑顔、寝顔、泣き声だって賛美です。絶対的な信頼をしてくれるのですから。礼拝中に聞こえる子供の声は少しも邪魔ではありません。小鳥のさえずりにも似た声にも聞こえます。おとなにはきびしい人生を経て来たのだから、賛美や感謝ばかりで人生がおくれるはずはないという人がいるかも知れませ。人生に苦難や、病気や、死や別れは避けがたい事実です。自分が願ったとおり、思い描いたとおりに進まないのも人生です。ですから人生は意味がなく、不満と怒りを内に抱えて生きるだけ、という人もたまに見かけます。内にある不満や怒りは、必ず外に噴出するものです。
幼子イエスに出会った羊飼いは、賛美しながら野に帰りました。フィリピの牢獄にぶち込まれ、むち打たれたパウロとシラスは賛美しました。それは牢獄に響き、同房の犯罪者たちを変えました。よい状況が人に賛美の心を与えるのではありません。社会的には十分満足している人が満ち足りて人にやさしくできるわけではありません。欲望には歯止めがないのです。神に捕らえられ、神に心みちたらされて、初めて賛美ができます。その人はどんなつらい状況でも、否、そこでこそ賛美し、神がして下さる現実と、次になさろうとして下さるこれからに、期待をかけることができます。微笑みながら信仰に生き、隣人を愛することこそ、賛美のはじめであり、おわりです。
(2005年04月24日 週報より)