日本人とキリスト教
10年ほど前に読んだ三浦綾子著の海嶺を読み返していました。題名の海嶺とは海の中の山(海溝の頂)の意味だそうである。キリスト教を小説に展開している著者は、天保時代に漂流し、海外にたどり着いた日本人の物語をフィクションを交え書き綴っている。読み進んでいるうちに気がつくのは、当時のキリスト教への強い迫害である。
人権と言論の自由を唱える外国の文化は、日本にとっては、脅威であったに違いない。日本人の中にクリスチャンは、カトリックとプロテスタントを合わせても1%にも達していないと聞いたことがある。知り合いにキリスト教(クリスチャン)が一人でもいたことが大きな恵みであったと感謝に耐えない。私が洗礼を受けるにいたったのには、二人のクリスチャンの影響があったと疑う余地も無い。クリスマスを祝うこの世の中に本当にイエス様を祝う人が何パーセントいるか分からないが、一昔に比べれば喜ばしいと感じるべきなのであろうか。クリスマスとキリストの教えがつながらないのは、迫害の時代が過ぎた今でも当時の影響が根強く残っていることは否めないのかもしれません。
私は、二人の子供を持つ四人家族ですが、妻も田舎の親戚にも誰一人とクリスチャンはいない。しかし、洗礼を受けた私が、この家族たちより優れた存在であるわけでもありません。私は、神の救いと己の罪を感じているだけのクリスチャンです。いつか愛する家族のみんなが、イエス様を信じてくれる日を願ってやみません。私にとっての伝道とは、キリスト教を世に広まるまえに、家族に理解を求めることが先決かもしれません。昭和の始めに路傍伝道に苦労された人々にならって何かひとつでもできることは無いのかと、弱い自分をかえりみる日々。
まもなくやわらかな陽射しの春がやってきます。人々の心にイースターとともにやさしい風が吹いてくれる事を祈り。信仰薄く自己中心的な自分を少だけ奮い立たせ、日本のキリスト教の役に立ちたいとおもいつつ居眠りをする。
嗚呼・・・こころは燃えていても肉体は弱い。聖書の言葉に偽りはなし。
菅原 克広 (2005年03月13日 週報より)