困難の中で
世の中で多くの人々が成功を夢見ますが、現実には成功どころか、日々は困難と苦悩にあふれている状況があります。神がおられるなら、なぜ求める成功を人に与えないのか。神は祝福を与えると言われる神ではないのか?とついつぶやきたくなります。けれど人は必要が満たされているなら、身分不相応な贅沢をするより、足りないくらいの生活のほうが幸福感が感じられるのです。教会などは特にそういうことが言えるところです。プロテスタントであろうが、カトリックであろうが、教会の危機は財政的に余裕ができ、余剰が出てきたときです。<清く―貧しく―美しく>は少なくともキリスト教会にはあてはまります。
大河ドラマの主人公にしばしば登場するのが<徳川家康>や<豊臣秀吉>です。なぜこうした人物たちが高く賞賛されるのか私には分かりません。確かに彼らが権力の座に着くためには、途方もない困難をくぐり抜けたのかも知れません。しかしいったん権力の座を手にしてしまった家康や秀吉の生きかたは、醜悪以外の何ものでもありません。最もそうした俗悪、下劣な人間性を発揮する独裁者は洋の東西を区別しないともいえます。
人が独裁的な、強大な権力につく時、よほどの自制心を持っているのでなければ人間性は基本的に腐敗するのです。裏を返していえば、何もかも思い通りにうまくいくということは、人間として幸せなのでなく、逆に不幸なのです。そこに神が苦難を人間に許している理由があると言うことができます。苦難も神の恵みというべきなのです。苦難が人を神に向かわせ、祈りの心を与え、時に人を強めるのです。だからこそ、いったん将軍と言われる地位に上り詰めた人間にろくなものはいなかったし、そうした人間に覇権支配っを受ける一般民衆の苦しみははかりしれなかったのです。
時代は回り、近代的な社会であるはずの現代においても、苦難がなくなるわけではありません。信仰者がいよいよ信仰に励み、周囲の人々を大切にして生きることは神の祝福を受ける大切な生き方です。でもそうして生きたからといって、苦難に直面しないわけではありません。逆に信仰ゆえの苦難に出会うかもしれません。でもそうするなかに、この世における祝福とはちがう、神の祝福に出会うのです。地上的な祝福は人々の評価、世間の受け、金銭換金可能なとでもいうべきこの世的なものと考えられます。神の祝福は永遠的かつ目にも見えにくい、人々の評価にさえのぼりにくいものです。
打ち続く苦難にあるとき、ひとの肩にのしかかる重圧と同じ重さの神の愛が、じつはわたしたちを覆っています。
(2007年01月28日 週報より)