讃美歌「善き力にわれかこまれ」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)
由木教会の2023年12月31日、主日礼拝の最後の讃美歌として469番「善き力にわれかこまれ」が讃美されました。由木教会では年末・年始の礼拝でこの讃美歌を讃美することが多いように思います。コロナ禍で讃美歌が限られてきましたので、この讃美歌をその年の最後の礼拝で讃美できたことは、この上ない喜びでした。感謝の祈りの中で伊地智様が言われておられたように、この讃美歌の作詞者はディートリッヒ・ボンヘッファーと記されています。20世紀を代表する神学者の一人として有名ですが、ボンヘッファーが1944年のクリスマスに、獄中から婚約者のマリア・フォン・ヴェデマイヤーに贈った詩を元に作曲された讃美歌だそうです。ボンヘッファーは、その半年後の4月にナチス・ドイツにより処刑されました。
善き力にわれかこまれ、守りなぐさめられて、世の悩み共にわかち、新しい日を望もう。過ぎた日々の悩み重く、なお、のしかかるときも、さわぎ立つ心しずめ、みむねにしたがいゆく。
ディートリッヒ・ボンヘッファーの詩や著作、そして何より獄中からの書簡は、今でも多くの人の心を慰め、或いは元気にする言葉であふれています。今回は「主のよき力に守られて ボンヘッファー1日1章(村椿嘉信訳、新教出版社)」の中から2月11日の章を紹介させて頂きます。
2月11日 実り豊かな地
詩編119篇11節 ルター訳聖書からの引用をそのまま翻訳
「あなたに対して罪を犯すことのないように、わたしはあなたのみ言葉を心の中にたくわえます。」
神の言葉は、豊かな地に「たくわえられる」ことを望んで、われわれのところに来るのである。神の言葉は、道端に落ちることを望んでいない。そこでは、「悪魔が来て、信じて救われることのないように、言葉を奪い取ってしまう」のである。神の言葉は岩の上に落ちることを望んでいない。そこでは、根を張ることができず、人々は「み言葉を聞いて、それを喜んで受け入れ、一度は信じるが、試練が来るとすぐに身を引いてしまう」のである。神の言葉はいばらの中に落ちることを望んでいない。そこでは、「人生の思い煩いや富や快楽にふさがれて」、窒息し、実を結ばなくなるのである(ルカ8章11節以下)。
全能なる神の永遠の言葉が私の中に落ちるということ、種子が地に蒔かれるように私の中に「たくわえられる」ということは、何と不思議なことであろうか。神の言葉は私の知性の中にではなく、心の中にたくわえられるのである。神の口から出る言葉の目的は、神の言葉がわれわれの思考の対象とされ、われわれに理解しつくされてしまうことではない。神の言葉の目的は、ちょうど、われわれが意識的に自分の思考の対象としなくても、自分の愛する者の言葉が自然にわれわれの心の中に宿るのと似ている。すなわち、神の言葉の目的は、われわれの心の中で神の言葉自体が躍動するようになることである。もし神の言葉を私の理解の対象としようとするなら、私の理解は多くの場合に神の言葉以外のものに向けられているので、私は神に対して「罪を犯す」ことになる。しかし、これはもともと神の言葉を聞くと言う事では無い。神の言葉を聞くと言う事は、神の言葉が深くわれわれのうちに宿るようにすることである。そしてそのことによって、われわれは、思いと言葉が業において罪を犯さない者となるのである。神殿の奥深くに至聖所があるように、神言葉がわれわれの最も奥深くに宿らなければならない。神の言葉について多くのことを知っていても自分の内に何も「たくわえられ」ていないならば、何にもならない。それよりは少しでもよいから聖書をゆっくり読んで、それがわれわれの内に入りこむまで待つ方がよい。
大澤 信之(2024年2月11日 週報の裏面より)