あなたが必要なのです
排除の論理は社会のあちこちで盛んです。北海道の銘菓(?)「白い恋人たち」の賞味期限偽装を内部告発した社員は、会社の中では公式に訴えることはできませんでした。社長の意に沿わない社員はその会社にいられないからです。結局内部告発しかとるべき手段がなかったのです。国旗を振り回す校長のもとで、教師たちは苦しんでいます。良心的な教師は居場所を失いつつあります。キリスト教会だって排除の論理は無縁だと言うわけには行きません。けっこうあちこちで見ることができる現象だからです。
でも次のパウロの言葉は有名です。
身体は一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。足が「私は手ではないから身体の一部ではない」と言ったところで、身体の一部ではなくなるのでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、身体の一部ではない」と言ったところで、身体の一部でなくなるのでしょうか。もし身体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで臭いをかぎますか。
1コリント 12 : 14-17
小学生でも分かる表現です。でも言われているのは人間関係におけるひとりの価値です。教会から徒歩2分の<スーパーいなげや>でひとりのお母さんが4-5歳のお嬢ちゃんに怒鳴りつけていました。「オマエなんか、ジャマなんだ。ジャマなの!」母親であれば決して言ってはならない言葉というものがあるはずです。ことによると、そのお母さん自身が精神的に追い詰められていたのかもしれない。でもそのお嬢ちゃんは哀れでした。わたしがその子なら、その一言で立ち上がれないほどの深い心の傷を負ったことでしょう。でも、言ってはならない言葉を、つい、口にしてしまうのが親という存在であるかもしれないとは思い始めています。
パウロの言葉は単純そのものです。人間としてこの世に生を受けた以上、人には何らかの果たす役割があるのだということです。すくなくも教会においては、人をそう受け止めるべきだと言うことです。資格がないとか、能力がないとか、・・・がないからと言う理由で人は排除されてはならないのです。教会とはそういう場所なのです。ましてや、教会においては、指導者の意に沿わないから、あなたはダメだといわれるようなことはあってはならないのです。
パウロの時代、つまり教会が始まったばかりの時代、教会にはユダヤ人がおり、ギリシャ人があり、アフリカや、中東や、インド人までいたかもしれない。奴隷の身分の人があり、自由人があり、金持ちや貴族もいた。世俗の価値観から言えば、肌は白いほどよく、ローマの市民権を持ち、貴族であればいっそう高く尊敬を受けたに違いありません。でも教会では、そういう価値観はまったく意味を持たなかったのです。教会において世俗の社会制度、価値観が忘れられていたのです。つまり社会的には奴隷である身分の人が、礼拝を指導し、彼のメッセージを深い尊敬をもって受けているのは貴族の身分であるマダムだったというようなことがあったはずです。
世の中はちがっていてこそ、よい社会ができます。世の中の人がすべて、法律家だったら、さぞ住みにくい社会ができるのではないでしょうか。パウロの身体のたとえで言えば、世のすべての人が頭脳(学者)ではないし、すべての人が足(スポーツ選手)でもありません。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」(24節)とパウロは言います。見た目においては劣ったと見える部分も必要なのです。体は食物を受け入れる器官も、排泄処理をする器官も必要なのです。それはお互いに上だ、下だというようなランクづけなど、ありえないのです。
パウロはキリスト教共同体を、<キリストの体>と表現しました。お互いがお互いを尊重するためです。いかにお互いが必要としあう存在であるかを意識するためです。「オマエなんか、ジャマなの」といわないためです。特定のダレカだけが注目されたり、重きを持たないためです。「あなたが必要なの。」「あなたがかけがえないの。」そう言いあう為です。
(2007年08月19日 週報より)