復活を望んで
3月の終わりになると、私は一つの出来事を思い出します。私のうちでは昨日おこったことのように鮮明に記憶していることですが、もう途方もない時が過ぎてしまったことです。約30年前の3月、70歳を過ぎたばかりの孤独な女性が国分寺の病院で亡くなられたのです。彼女は結婚生活の中で夫に裏切られ、病みつかれ、死を待つむなしい療養生活を病院で送っていたのです。遊び好きの夫から移された梅毒菌が彼女の全身をむしばんでいました。彼女の手足はかろうじて切断をまぬかれている状態だったのです。
肉体以上に、心と魂は病んでいました。<彼女>の口から出る言葉は、当然ながら他人をうらやむか、のろうかの言葉でした。言葉は、直接、心をうつしだすものです。自分の生い立ちをのろい、すでに他界した夫をのろい、幸福そうに生きている周囲の人々を憎悪する言葉が、<彼女>の言葉のすべてでした。もし地獄があるとすれば、まさに<彼女>が生きている現実が地獄そのものだったでしょう。もしサタンが生きているとすれば、サタンが<彼女>の心に住み着き、<彼女>に思う存分に語らしめ行動させていると見えたのです。
彼女の病室に一人の敬虔なキリスト者が心臓を患って入院してきたのです。その方が私の知り合いで、1930年代に由木教会で勧士(信徒伝道者)であったAさんです。たまたまベッドが隣り合うことになったのです。Aさんは隣の女性の悲惨な状態を見て必死に祈り始めました。そして私はAさんのお見舞いでそこに立ち会うことになったのです。隣の女性の険しい表情は、見知らぬ訪問者である私にも少しの遠慮も無かったことをおぼえています。Aさんは優しい言葉をかけ、戴き物をおすそわけしたりしましたが、戻ってくる言葉は野獣のような言葉だけでした。長年悲惨な環境におかれ続けた老人がそんなにたやすく優しい心に共振できるはずも無いのです。
Aさんは祈りの人でした。必死に祈ったのです。ご本人も心臓を患ってその病院に入院していたのです。それも彼女が危篤寸前になるまで祈り続けたのです。やがてAさんの優しさと祈りが<その女性>を変え始めていたのです。<彼女>は人間の心を取り戻しつつあったのです。
<彼女>がなくなる二日前のことでした。Aさんはこう語りかけたのです。
「○○さん、これは私が教会に行くために取っておいた履物です。」といいながら、和装用のうつくしい草履を取り出してこういいました。「これを履いてあなたは天国に行くのですよ。」
それまで頑なにしがみついていた憎悪がガラガラと崩れたときでした。
<彼女>は言いました。「もったいない。でも履かしていただきます。」
険しい憎悪、他人への憎悪に駆られていた表情は<彼女>の顔からすっかり消えていました。二日後、まったく平安な心と感謝のなかに<彼女>は天国に旅立ったのです。
一連の出来事を見つめていたわたしは、人が一瞬のうちに変わりうることが確かにあることを教えられたのです。神がAさんの祈りに答えてくださり、そこに心の奇跡を造り出してくださったのです。これも復活の一つの出来事ではないだろうか。一人の不幸な女性を神が救ってくださった。Aさんは履物を与えたけれど、神は彼女を若い娘のように着物も帯も装って、天国にむかえてくださったではないだろうか。Aさんはその後、10日ほどで天に召された。あの祈りは命をかけた祈りだった。この時期に私はこの出来事を思い起こします。
(2013年03月31日 週報より)