人間と動物の境界とは

先日、京王線の電車にのったときのことです。荷物の吊り棚の上にある広告をながめていたら奇妙なことに気がつきました。並んでいた4つの広告のうち3つは消費者金融のものでした。その3つの広告に、はさまれるようにして、多重債務者救済の法律事務所による「あなたはまだあきらめてはならない・・・」というような内容の広告が表示してあるのです。少し出来過ぎのような気がするほどでしたが、たまたまそうなったのでしょう。それほど消費者金融の広告は多いということです。
わたしたちの教会のそばのファミレスの隣に、いくつかの消費者金融が集まったブースのような、自動貸し出しの機械があります。教会の周辺にそうした設置はいくつかあるのです。見ていると結構そうした店舗に入っていく人がいますので、需要はおおいにあるのです。銀行の自動取引の機械は撤収される一方ですが、サラ金の機械貸し出し店舗のほうは増える一方です。このところ問題にされていることですが、サラ金からお金を借りる人には本人の了解なしに、生命保険がかけられているのだそうです。やがて その人が多重債務者となって、どうにも身動きが出来なくなって、自殺に追い込まれる人も少なくないと聞きます。取り立てる側のサラ金業者は、取立ての手間がなくなって、資金が回収できるので、自殺と聞くと喜しいと、担当者は言うのだと新聞には伝えられています。最初は「気の毒に」と思っていてもやがて厳しい上司からのノルマで、そうした気持ちは消えていくのだそうです。

そんな世界が、わたしたちの周囲に堂々と存在しています。サラ金にまで手を出さねばならない状況というのは、それ自体異常な状況でしょう。それも返済できずに、やがて複数の業者から借り入ねばならないようになったら、蟻地獄の中でもがき続けるようなものです。そこから這い出ることはほぼ不可能な状況。それを知ってなお貸し出しをすすめる業者。自殺してくれればありがたい。ハイエナ商法といえそうな商売が、堂々とまかり通っていることに驚きを覚えます。そうした商売がシステム化され、財務省の高級官僚が天下りして、大手の消費者金融の会社の社長や取締役に赴任していきます。まさに金銭が、人間を悪魔に変えていく過程を見るようです。「初めての方も簡単です。」「すでにお借り入れの方も、遠慮なく。」そうして手を出した貧しい人々が、狙われ、貪り食われて、ついには自殺して、返済が終わります。残酷な商売があるものです。旧約聖書には貧しい人々に対して利息を取ってはならないとあります。(レビ記25:35-38)もっとも貧しい人々には究極の救済になりま す。

こうした日本の状況は動物以下の行為と怒っていたわたしに次のような出来事が目に入ってきました。10月15日、アメリカのウインスコンシン州のラインという町で起こった、とのことです。朝日新聞が19日の夕刊で伝えた出来事です。足の不自由な女性宅で、飼い猫がテーブルのろうそくを倒して火事になってしまったのだそうです。交通事故で片足を失った女性はテレビを見ていて義足が手元になく動くことができなかったのです。火の手が上がるなかで13歳のメスの介助犬ジェシーが、義足と電話を運んできて、女性は介助犬ジェシーに伴われて無事屋外に逃げることができたのです。そうして女性は緊急電話をかけ、消防を呼びました。
その時2階でろうそくを倒したのとは別の飼い猫が助けを求めて鳴いていたのです。介助犬ジェシーは、再び火の中に飛び込んで、ついに帰らぬ者となったのだそうです。他者を救うために火の中に飛び込んでいく介助犬と、行き詰まってサラ金に手を出す人に、生命保険をかけ、自殺に追い込んで、保険で回収できたと喜ぶようになる心。どちらが動物なのか人間なのか、逆転しているかのようなこの現実。

必死になると、ついどこかに置き忘れる人間的な心。そうした視点で社会や人を見ると、類似なことはあちこちにあるような気がします。「キリスト教信仰など過去の遺物。人間は好きなことをやっていれば良い。」そう考える中で、人はますます人間性を失っていきます。

(2006年10月22日 週報より)

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