新年を迎える
正月もこの時期になると、いよいよ屠蘇(とそ)気分も抜けきって、社会全体が通常に戻って、動き始めます。ところがわたしにとっては、毎年、正月・松の内(つまり七日)が過ぎてやっと新年が来るという気持ちが強いのです。じつは毎年1月7日を期限にして、源泉所得税の年末調整申告と納税が義務付けられているからです。多くの教会や牧師は3月の確定申告で済ませているようですが、わたしのところには税務署から11月には年末調整説明会の案内が来て、1月7日にはその事務が済んでなくてはならないのです。いちおうそのためには教会の12月会計がきちんと締められなければならないのです。1月1日には元旦礼拝、2日には主日礼拝を終え、ストレスフルな様々な税務書類の取り揃え・作成が頭をよぎります。・・・・そしてぎりぎり七日。国民としての義務!納税を済ませ、税務署員の方にこれで「わたしにとって新年ですよ。」と話しかけます。人と人のすべてのふれあいは伝道の機会にならないとも限らないのですから、ただの納税ですませたくないという思いは毎年のことです。
まだ新年の手帳も買っていないし、さしたる祝いもしていないので、少し解放された気分です。「新年おめでとう」のあいさつも、もっと心こめたものになるのでしょうか。新年まだなにも手にしてなくても、それだけで、なにか心あらたまる気持ちがだれにもあります。新しいものは、畳でもなんでも、気持ちがいいのです。
しかし、はっと気づくと、新年とは、一年歳を重ねることです。新しくなることでなく、自分が古くなること以外の何ものでもありません。つまり私は66歳+1年ということです。それだけに目をとめれば、めでたさは半減します。
最近やたらに耳にする言葉です。「年齢ほど個人差のあるものはないのです。」
たしかに聖路加の日野原重明先生のような方は、年齢を感じさせません。でも私は日野原先生ではありません。年相応ならまだ良いのですが、加齢のしるしはここ、あそこにあります。年すすみ、記憶力は減退し、やたらに気短になって、つい何もかも他人のせいにして自己中心的な生き方に傾き、懐古趣味的に、過去を振り返っては、「昔は良かった・・・」というようになるのでしょうか。
たしかに、だれでも一年過ぎれば、一年老いるのです。でも、与えられたこの1年は、だれにとっても未知の、新しい経験にほかなりません。新しい自分に出会い、新しい何かの経験を味わうときだといえます。それは過去に経験したものとはやはり別のものです。たとえ昔読んだ本を読んでも、そこには別の感動があるだろうし、かつて訪ねたところを再訪問しても、心に感じるものは別のものであるに違いありません。
なぜ神さまはこの新しい年を下さったのでしょう。小さな忍耐が出来ずに、まわりといさかいを起こすためでないことは確かです。今年でしか経験できない何かが、この年あるからではないでしょうか。<期待と祈り>は新年に欠かせないものです。何も期待せず、何も祈らなかったら、起こることも起こりません。若者にとっても、私のように少し先が見えてきたものにとっても、去年までの私と全く同じものであってよいはずがありません。信仰を抱いて、新しい自分を作り上げる。そのような気概を持ってもいいのではないのはないでしょうか。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、御世、すべてが新しくなったのである。
2コリント2章17節(口語訳聖書)
今年わたしたちは新しい自分に出会うのです。
(2011年01月09日 週報より)