モノから、ココロへ

ケータイ、パソコン、DVD、デジタルTV。新世代といわれるような新しいものが次から次へと生み出されています。でもわたしのような人間には、どうもついて行けません。今使っているものが壊れたら、やむを得ず、次なるものものを手にするということになるかも知れません。ある日、劇的に、機器の便利さに目が開かれて、のめり込むように使い始めるという可能性はゼロではないでしょう。でも今のところは、全くと言っていいほど関心がありません。だからますますついて行けなくなります。

こうした第三世代機器(そういう言葉があるのかどうかは知りません。)に特徴的なことは<多機能>ということです。多様なことがこなせる能力。最近では、人間にも、そうした多機能が要求されるようになって来ています。使いこなせることが現代人としての前提です。携帯は使えない。だから持ってもいない、というわたしのような人間は営業をしているサラリーマンにはありえません。牧師ですら、常に携帯を身につけて、いつでも教会員からの連絡にスタンバイしている、と言うのがふつうになってきています。ただ、わたしには通常の電話、FAX、Eメールで十分。

ただ余計なことかも知れませんが、最近こうした電話や、携帯を使った犯罪も多いと聞きます。「オレ、オレ詐欺」とか、昨年起こった幼女誘拐殺人事件では、被害者の遺体を携帯の写真メールで母親に送ったと伝えられました。なんという卑劣なことを思いつくものだ。そんなことのためにこれらの機器が作られたはずはないけれど、機器を使う人間のココロが、機能ほどに進歩していないのです。パソコンの普及で、教会活動や、牧師の仕事の仕方はずいぶん便利なものになりました。インターネットのホームページを見て教会を選ぶ人も多くなったことでしょう。

ただ、最新の機器を自由に駆使できるかどうかで、人間の価値が決まるわけではありません。(一般の社会ではそうは受け止められてはいないかもしれませんが・・・)人は多機能だから、その人がエライと言うことには、じつはならないのです。心こそ、人間力の大きな部分なのです。耐え忍ぶ心、他人をも自分をも受け入れる心、愛し、ゆるす心、和解する心。感謝する心。正義を実行する心。それらは何かできるという履歴書に記載する機能ではありませんが、人間として根本的な力にほかならないし、現在の日本においてかなり欠落している部分といえます。
機械は長く使っていると、機能的に劣ってきます。人間も年をとれば、出来なくなること、失うことも少なくないはずです。その時になお機能優先にしかモノを考えることが出来なければ、高齢化は不幸そのものでしょう。けれど、内なる心の豊かさに目を向けることができれば、それは不幸ではなく、神のめぐみの軌跡として、自分の加齢を受け止められうるでしょう。信仰に生きる意味は、そうした所にもあります。

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