ゆるす・ゆるされる
ペトロは主イエスに尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「7回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
この聖句を受けてスエーデンの映画作家イングマール・ベルイマンが1960年代に<491>と題する映画を作りました。要するに決して許されない罪という意味付けがそこにありました。聖書を知らない大半の日本人には意味不明の映画だったかもしれない。ペトロは単純素朴な人だった。でもことによるとどうしても許すことのできない人がいたのかもしれない。何度も同様な罪を犯す知人。そのたびに本人に代わって謝ったり、財布をひらいたりさせられて、心が煮えくり返ったりしていたのかもしれない。人が他人を許す限界、七度まで許したのだから自分はやはり主の弟子として十分に寛容で、あわれみ深い存在である。主イエスさま、その点をお忘れなく・・・ とでも言いたかった。
ところが主イエスはそれにこたえるかのようにとんでもない話をペトロにぶつけます。主イエスは、現在の貨幣価値で数十億円にもあたる1万タラントの負債を帳消しにされた役人が、それに比べると数十万分の1にしか当たらない貸金を、すぐに返せと迫ったというたとえを話されたのです。人間はいかに自己中心的なものの見方をしている。いかに自分自身のことを問題にしないのか。ペトロに限らず、いかに自分は寛容、寛大であるかと思い込んでいるということ。
主イエスの問いかけによって、ペトロはそれほどのゆるしに包まれていたのかを自覚します。もっともそれはこのやり取りで一挙に理解したというより、自らの裏切りと挫折のうちでなお深く噛みしめたことというべきなのかもしれません。完全無欠な人間はどこにもいません。人はお互い、欠点と破れを心に抱え込んでいます。同時に、だからこそお互い神の許しに支えられています。ゆるされたもの同士は、ゆるしを共有し、ゆるしを実現してゆきます。
コロナ禍もだいぶ沈静化の流れにありますが、その中でDV(家庭内暴力)が昨年同期に比べ三割も増加していると昨日の新聞は伝えています。またコロナ感染者や医療関係者に対する差別や勝手な危険視が絶えないということです。新型コロナ・ウイルス第一波へのゴールがほの見え始めた今日この頃、かなりの人々が家族への暴力をふるったり、医療の第一線で労しておられる人々への差別的な言動等で心を晴らそうとすることはあまりにもばかげた現実です。キリストの愛と平和をお互い豊かに実らす時でありたい。来週はペンテコステ礼拝です。
(2020年05月24日 週報より)