父のこと
由木教会に中央大学で学んでおられる留学生の方々を迎えるようになったことも理由のひとつですが最近父の事をよく思い出します。母は時々由木教会に滞在したことがありますので皆さんの中にはご存知の方も居られと思います。その母が亡くなったのが2007年。父が召されたのは今から21年前の1988年です。そのとき私は40才。私が生まれたのは父が40才の時ですから不思議な気持ちになります。
父は明治生まれ。山形県出身、中央大学を出て、弁護士をめざしているときにクリスチャンになりやがて献身しました。卒業後は教団の事務の仕事をしていたそうです。その後母と結婚して10日目、1942年6月。母が独身時代広島で牧師をしていたという事で治安維持法により特高警察に逮捕されてしまいました。母は約10ヶ月、厳しい留置場生活を送ることとなり、2人は別々の生活を送らなければならなくなりました。父は直接伝道していなかったため逮捕されず、教団本部、聖書学院を残された者たちで祈って守りました。実はそこは広大な敷地であったため軍部の計画で大東亜共栄圏実現のため訓練養成場にする予定であったそうです。
やがて母も釈放され、父は教会の無い所にテントを張ってしばらくその地に滞在し、伝道しながら全国を廻る福音十字軍(今の私には良い名前と思えない)のメンバーとして働くようになりました。新宿に住む私たち家族(母、姉、私、弟)を置いての今で言う単身赴任です。そのような働きで全国に多くのホーリネス教会が誕生しました。
1956年4月からお寺の境内などにテントを張って伝道していた愛知県の蒲郡に父が牧師として残ることとなりました。その年の9月私たち新宿の家族は見知らぬ地、蒲郡に引っ越しました。その時の不安な気持ちは今でも鮮明に覚えています。小学校3年生の時でした。最初は印刷屋の2階を間借りしてのスタートでした。その日に食べることにも困るような貧乏生活の中、父はよくおかずをゲットするため海に行って魚を釣ったり、山に行って山菜を取ってきてくれた事が今では楽しく思い出されます。貧しい生活だったけれど優しかった父の姿しか思い出せません。
父は娘の私が言うのもおかしいのですが、とってもかっこよかったです。音楽で言えばオルガン、バイオリン、ギター、ウクレレなどが弾けたし、特に得意とするのが知らない讃美歌を初見で歌うことでした。スポーツはテニス、乗馬(独身の時)、水泳、卓球を楽しみガーデニング、料理、習字、裁縫も器用にこなす人でした。最初の会堂を建てる時には大工さんのやり方を器用にまねて牧師館の壁塗り床張りを自分でしてしまいました。
母は外交的で外に出かけて伝道するのが好きでしたが父は控えめで権力で人の上に立つことが嫌いで田舎牧師に徹した人でした。そこが私としては一番好きなところでした。私は20才の時家を出ましたので父と共に暮らしたのはたったの20年でした。
父の最期は突然でした。心臓の具合が少し悪いと病院に入院して間も無い朝のことです。母がお見舞に行き、2人で朝のお祈りをし、着替えを終えてしばらく後、誰も気づかない間に息を引き取っていたそうです。まるでそっと天に移されたかのように。
この由木キリスト教会の礼拝堂が建つ前年に父は天に召されたのですが、まだ建設予定地であったこの空き地に立って、建てられようとしている由木教会のため一生懸命祈ってくれた父。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」テサロニケの信徒への手紙5:16,17を信仰生活の主旋律にしていた父。何だか会ってまた色々な話がしてみたいと思う今日この頃です。
小枝 黎子 (2009年07月12日 週報より)