「共に生きる」ということ
今まで私たちの家でさまざまな生き物を飼いました。犬、猫、ニワトリ、カメ、ハムスター。ゴミ捨て場に捨てられていた生まれたばかりの子犬が届けられたり、他人様のご都合で我が家をねぐらとする動物達もいました。でも、そのたびに動物達は見事に家族の一員を果たしてくれました。ニワトリが犬の散歩を先導してくれる様になった事もあります。ガン手術のため世話が出来なくなったのでと、カメを預かって世話をしたことがあります。
感情などないと思っていたカメが、やがて信頼関係が築かれると、当初こちらを恐れて全く姿を見せなかった態度が一変。こちらの姿を見るや、えさを求めるようになるとか、動物達は、一旦信頼関係が作られると、それを曲げることがないのです。かれらは共に生きる喜びを教えてくれます。
けれど人と人の間というものは必ずしも、共に生きることは簡単ではありません。現代は世界中に格差社会が広がっています。そして事実上さまざまな差別が存在します。民族や人種による差別はなお消えたわけではありません。
アメリカ大統領候補選挙の中で、女性差別がガラスの天井として存在すると表現されました。透明であるけれど、厳に存在する差別というわけです。障碍者差別、高齢者差別もなくなったわけではありません。介護を必要とする老人達の50%が何らかの虐待を受けているという調査があると聞きました。
以前あるところで私が障碍者差別についてに発題をしたことがあります。聴衆の皆さんが帰ったあとで、8人の牧師達が残りました。そしてそのうちの3人の方が、自分の教会に障碍者が来会を望んだとき、お断りしたことがあるし、今後についても、障碍者を扱う(?)経験のある教会に<委ねたい。>と発言したのでした。
この出来事から数年経っていますので、同じことを言うかどうかは分かりません。レストランやホテルでさえ、車椅子や盲導犬とともに入場することが出来ないケースがしばしばありました。飛行機もますます大型化、ジャンボ化する中で、エコノミー クラスの1人のスペースはますます狭くなる印象があります。そうした傾向の中で、盲導犬、介助犬のためのスペースはどこまで守られているのでしょう。とはいえ、利潤追求、会社経営の論理で動かされているこれらのところで、そうした障碍者のための利便が損なわれると言う事は今後、改善されねばならないことです。
でも教会はべつだ、とわたしは思いたかったのです。ですが現実は教会もさして違わない。できればよそに行ってほしいと思う人が8人中3人。37.5%。・・・障碍者という存在は自分とは無縁のこと。障碍者は家族と施設と養護学校に任せておけばよい。われわれは健康で、なんらの障碍もない健常者・・・そう思うことは勝手です。でも生涯、健康で体も心も全くすこやかで生きつづけられる人など、皆無でしょう。どんなに健康志向で、アンチ・エイジングを心がけても、肉体と精神は確実に障碍を受け入れていくのです。
主イエスは病んだ人々、障碍のある人々、心傷ついた人々を選んで出会ってくださいました。教会こそそうした人々と喜んで共に手をたずさえて歩むところです。教会は人が神と出会うところです。生涯の友や伴侶と出会う人もいます。同時に、体や心の傷いついている兄弟、姉妹と出会うところでもあります。それでこそイエスキリストの教会というべきでしょう。イエスキリストは決して心変わりがありません。いつまでも深く深くわたしたちを愛してくださるのです。わたしたちも共に生きる心を、決して変えることなく、神とともに歩みたいのです。
(2008年09月28日 週報より)