年の初めに

正月も七日目を迎えます。<まだ屠蘇気分がぬけきれない>などといわれるこの7日間です。わたくしごとですが・・・元旦礼拝を終えると、わたしが毎年、まず済まさなければならないのが、1月4日あるいは5日頃までに所得税の年末調整のため、八王子税務署に出かけることです。わたしの場合は特別徴収という納税の仕方が定められており、年2回にまとめて納税する形が取られています。牧師としての私の収入など税務署が追いかけるほどのものでないことは先方も承知のうえでしょう。でもしっかりと捕捉されており、そのための整理番号も定まっているのです。放っておいたら多分、あちら様からお呼びがかかるのだろうと思います。そんな大それたことをする勇気はないので、さっさと出かけるのです。
先週、5日、控除されるべき領収書を抱えて、申告と納税を済ませ、やっとわたしには新年をむかえる気分がしてきました。1年分の給与や、払い込んだ社会保険料など表を作って、税額表に首つき合わせて、年間の源泉税の一応の計算をして、税務署に行きます。これをもとにして税務署員の方に細かい税法上の控除計算をしてもらって、最終的な納税額がきまるのです。こうして尊い国民の義務としての手痛い納税を済ますのです。これが済むまでわたしは新年を祝う気分など全くしないのです。

これがわたしの1年の初めに果たさなければならないことのひとつです。だれでも わたしたちは、そうした、いくつもの、果たさなければならない仕事や課題に追われて、日常を走っています。自然にそちらに心が向く快適なこともあるし、気の重い、やる気がおこらないこともあります。でもそんな贅沢を言ってはおれない状況に追われて、あわただしい毎日が流れていきます。

主イエスの周りには、しばしばいきり立つファリサイ派や律法学者が囲んでいたのです。人々は主イエスに「聖書を守れ。」「律法を字義通り受け止めよ。」と要求したのです。彼らには、律法の中心である主イエスが、律法の破壊者としか見えなかったのです。思えばなんと大胆かつ、無謀な理解の仕方だったでしょう。
主イエスの弟子たちは、ある安息日に麦畑を歩いていたとき、その穂をつんで食べたのでした。大のおとながそんなことをするなど、よほど飢えていたのでしょう。同情したくなるような光景です。しかしファリサイ派の人々は主イエスにかみついたのです。「それは 労働行為だ。?!」たしかに安息日に労働として穂を摘んだり、医療行為をすることは禁じられていました。でも飢えを満たしたり、緊急の医療行為が禁じられるはずはありません。そうした状況を無視して、聖書の言葉が、誰かを陥れたり、裁くための道具に使われることが、時折あるかもしれません。神の言葉は人を生かし、赦し、和解をもたらし、人生を再生させるものです。それは神の言葉の基本的なあり方、いわば原点です。
安息日の律法を重んずることは大いに意義があるでしょう。けれど教条的にそれを遵守することが大切なのではありません。追われるような日常の多忙さから、切り離されて、われわれ自身を心も身体も、神によって休息することが必要なのです。人は事ほどさように、本質から離れ、「神の言葉を守れ。」といいつつ、神の言葉を踏み外す存在です。

年の初めです。あらためて私たちは信仰の原点に立ちどまりたい。そう願っています。

(2007年01月07日 週報より)

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