『思い悩むな。』

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服より大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。・・・だから・・思い悩むな。」

マタイ福音書6:25-31

新年を迎えました。たしかに、社会経済的には不安の雲が世界を覆っています。その影響を蒙(こうむ)っている多くの人々がいます。失職した方々には、一刻も早く新たな職場が与えられる方策が講じられなければなりませんし、緊急的な援助には教会もできる範囲で、われわれ一人ひとりが手を差しのべるべきだと思います。同時に、こういう時だからこそ、冒頭のイエスの言葉が心に響くのです。
教会という世間の波風とは無縁な、世間知らずの牧師だからそんなことを言っておれるのだという人もいるかもしれない。でも教会にも世の波風は吹いて来ます。時折、生活に行き詰まって、食べ物や金銭を求める方々が一縷(いちる)の希望を持って教会にやってきます。つらさを抱えるこうした方々とどう向き合うかも、牧師の務めのひとつです。
ただ、「思い悩むな」と語りかけたイエスの生きた時代のパレスチナでは、いまとは較べものにならないほど、人々は貧しかったし、飢えは日常的だった。こう語ったイエスも庶民の一人として貧しさを身にしみて分っていた一人だった。しかもほかならぬイエスを抹殺しようとする権力側からの圧力は日増しにつよくなる状況もありました。一刻も早く弟子たちを育て、次の時代に備えねばという、はやる思いは誰よりもイエスの心にはあったはずです。

何もかも知らないでいたはずはないのに、イエスの言葉はなぜこんなに牧歌的・自然体なのでしょう。確かにそうです。空の鳥、野の花は、何の心配もせずに、生き、養われ、美しく装われています。それに比べわれわれは必死に努力し、ストレスを忍び、腹が立っても時には笑顔で流し、言いたい言葉を呑み込み、我慢に我慢を重ねます。そうして社会に適合し、なんとかよりよい状況を作り出そうと涙ぐましい努力を重ねるのです。

確かに、努力しない人に明日はありません。しかし努力の結果が、すべてよい結果をもたらすと約束されているわけではありません。けれど報いられないことを知りながら、努力できるほど人はたくましくはありません。イエスの言葉は<視点・見る眼>がわれわれとは違うように思います。
つまり・・・わたしたちの命・からだは、神によって備えられ、与えられているという事実です。人には能力や生育によって、大きな違いがあり、それは不平等極まるほどのものです。しかしそれらをはるかに越えて、神によって生かされているという特権は、はかりしれないものがあります。
主イエスふうに言えば<栄華を極めたソロモンでさえ、野の花の一つほどには着飾ってはいない>のです。人として、われわれが苦闘努力することは大切ですが、そういうわれわれを支える神がおられることを知ることはさらに大切です。
厳しい状況に追い込まれている人がいることは事実です。でも神はわたしたちも含めたすべての人々が生々と生きる世界を与えてくださるのです。こうした状況に直面して、これが困難な他者への思いやりを、多くの人々が抱くきっかけになるとしたら、それはそれで社会の前進と言えるはずでしょう。それとも、それはあわい初夢に過ぎないのでしょうか。

(2009年01月04日 週報より)

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