牛の上半身

最近、小学校2年生の娘とディズニーのDVDアニメに付録として付いていたシルエット・クイズなるゲームのようなものをやった。小魚が徐々に集まってシルエットを形づくるのを見て、いち早くその名前を当てるという他愛のないものである。正解だと、再び小魚が親指を立てたサム・アップのシルエットを作り、「よくやった。正解!」などと言う。ところが間違えると、牛の上半身だけが出てくる。「何だ、これ?」 それが親指を下に向けたサム・ダウンであることに気づくまでに、数十秒ほどの時間がかかったが、いつまでも牛の残像が残って仕方なかった。私の普段の生活に、親指を立てて片目をつぶったりする機会は殆どないが、サム・ダウンに関しては絶無に近い。

アメリカ西海岸に短期で遺跡発掘の研修に行っていた知人と話しをする機会があった。アメリカの発掘事情など多くの興味深い話しの中で、改めて驚いたのは、アメリカの小学校・中学校レベルでは考古学に関連する事柄は、殆ど教えられていないということだった。アメリカという国の歴史とは、すなわちコロンブス以後のことであり、それ以前の先住民の歴史は大学レベルにならないと教わる機会がない、ということである。縄文人と頻繁に出会う?日本と何と大きな違いだろう。

アメリカのキリスト教は、キリスト教などではない。アメリカ教すなわちアメリカ主義の宗教的表現でしかないという人もいる(田川健三『キリスト教思想への招待』)。確かにヨーロッパ大陸におけるキリスト教の長い歴史的な苦闘とその遺産を知るにつけ、アメリカ的キリスト教との断絶は大きい。そしてそのアメリカ的キリスト教から多大な影響を受けている日本的キリスト教との違いも。

私たちの日常生活は、様々な「牛の上半身」に囲まれている。

五十嵐 彰(2005年02月13日 週報より)

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