Comfort ye, my people. わが民を慰めよ
このクリスマスを迎える時期、ヘンデルが作曲したオラトリオ<メサイア>があちこちで演奏されます。どの部分をとっても美しく、感動的ですが、曲の冒頭、序曲に続いてテノール独唱が静かな弦楽をバックに印象的に歌い始めるのです。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。
イザヤ書40:1節以降
エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」
歌の内容は、イザヤのバビロン捕囚によって捉え移された人々への呼びかけの言葉です。今や国は滅び、バビロニヤの民となって、そこに適応して歩んでいるユダヤの民達。文化習慣は全く異教的であるその地で、彼らはバビロニヤの高度な都会的、文化的、物質的豊かさに浸かりきり、ユダヤ人をユダヤ人たらしめている神への信仰が押し流されんばかりになっていました。
当初、かれらは奴隷に近い存在としてバビロニヤに連れてこられた人々でしたが、努力を重ね、認められ、それなりの安定した立場を確保していました。バビロニヤ人が連行したのは、もともと能力ある、役に立つであろう人材ばかりでした。
イザヤはバビロニヤからの解放とユダヤへの帰還を預言し、人々は神の民として心備えよ、と語ったのです。しかしその時点でバビロニヤが崩壊する兆しは全く見えず、帰還の可能性など皆無に等しかったのです。たとえユダヤに帰ったところで、そこに何があるのでしょう。荒れ果てた国土と崩壊したエルサレムと神殿。異郷の地といえども、安定したここバビロニヤにい続けるほうがどれほど居心地がいいことでしょう。
でも人にとって繁栄と満ち足りた消費生活があれば、心や精神の問題はどうでもよいことでしょうか。絶対であるかのように見えたバビロニヤ支配は、ある日突然のように瓦解して、ペルシャが取って代わります。絶対にありえないと思われたベルリンの壁が崩壊するように、歴史はとつぜん新しいページを繰るように様変わりすることもあります。
ひとが与えられた生活を楽しむことは、悪くはありません。喜びと楽しみも人生の大切な部分です。しかし、本当に<心喜べること><心満ち足りること>は物質や消費でなく、精神的なものです。
雑誌「世界」に次のような一節がありました。
『ばんばひろふみの歌う「さちこ」という歌がある。「幸せ数えたら片手にあまる。不幸せ数えたら両手でも足りない。・・幸せ話したら5分で足りる。不幸せ話したら一晩でも足りない。・・・」この歌に登場するサチコは「おしん」のような貧困と辛酸を経験したわけでなければ、ドラマのヒロインのようにめくるめく恋に破れたわけでもない。そうした貧しさ悲しさとは違って、むしろ何か満たされない気分に覆われて、「両手でも足りない、一晩でも足りない」不幸せ感,未達成のなにかが彼女を襲う。』
村瀬学「家族を見失うとき。」
モノ、カネは衣食住の基盤です。でもそれは人間の幸福を約束するものではありません。人が今必要とするのは一時的な慰めや満足などではなく、一見希望の光も見えないときですら、必ず与えられる神による慰めです。
年の瀬のニュースとして昨日伝えられたのは、代々木の借家から、死後6年以上もたった白骨死体が発見されたそうです。かつて幸せな生活をしていた人が、大都会の片隅で、妻と離婚した後、孤独死をして6年、だれも知ることがなかったのです。数年前由木でもそうした事例は発生しているとのことです。この人々は死を前に、社会と断絶して、孤独と寂寥の中で精神的に生への意欲を失っていたのかもしれません。いつでもイエスにつながり、また教会の兄弟姉妹と信頼でつながるところに、心満ち足りる一つのたしかなあり方があります。
(2008年12月21日 週報より)