聖書の民が語る

燎原の火のように世界中に燃えさかるテロリズムの火の一つの根源はパレスチナ問題です。パレスチナ人の人権と身分の回復なしに、テロリズムには一定の理由が与えられているとさえいえるのです。<テロとの戦争>こそ根本を無視した憎しみを増幅させるだけの悪循環をもたらすのです。こうした混迷の中でユダヤ人、パレスチナ人の間で懸命に平和と和解構築のために労する人々がいますが、しばしばそうした人々がテロで殺されていきます。
わたしの手許に「死を生きながら」という本があります。著者のデーヴィド・グロスマンはユダヤ人ジャーナリストで、まさに両者の間に立って平和構築のために労している人です。2ヶ月ほど前にこの人が何者かに殺されたと新聞に伝えられました。こうした人々を一人でも多く消していくことが戦争や紛争を継続したいと画策するものたちにとっては重要なのでしょう。

巨大な軍事力とCIAをしのぐほどの情報機関を駆使して、核兵器を保有してまでハリネズミのように重武装するイスラエルは聖書に描かれているイスラエルとは全くかけ離れた姿に見えるのです。歴史は武装した国家がその軍事力で長続きするとは語りません。アッシリヤも、バビロニヤも、ペルシャもアレキサンダーのマケドニヤ帝国も、ローマもナチ帝国も滅びたと伝えます。かつてのイスラエルは政治的、軍事的にはどこよりも弱く小さかったのです。小ささのゆえに苦難を負ったことは多くありました。しかしその故に存在し続け、生き続けたことは、それだけで一つの平和のメッセージになるのです。イスラエルが民族、国家として形成されたのは<出エジプト>という経験だったといわれます。それ以前は奴隷の集団にすぎなかった人々が、40年の荒野を彷徨する経験の中で一つにされていったのです。彼らは奴隷としての過去を持っていたということ以外に、なんら人種的背景は無かったのです。
今から三千数百年前、40年といえば平均寿命を越えるほどの年月です。その年月は途方もなく長い時間でした。その日の糧を得ることさえ簡単ではない砂漠の40年間、人々は食べてよいものと、食べてはならないものを線引きしました。反芻する牛は食べてもよいが、反芻しないイノシシは食べてはならない。また、ひづめが分かれていない野うさぎは食べてはならない。・・・・ただ単にここで生きられればよいという生活ではなかったでしょう。いったん自分に対して、神の前で決断したことに身を挺していこうとする態度がありました。人間は本能だけで生きてはならないと言う、自分への言い聞かせがあります。そのうえで根源的あり方として十戒が与えられました。

他者を圧倒して、富や権力を確立する生き方と正反対のあり方がここにあります。 神を存在の根源において、同時に他者の人権や存在を重んじ、ともに歩んでいこうとする生き方です。そうした生き方を身に着けるには砂漠で40年を過ごすことが必要でした。40年はあまりにも長い年月です。果たして40年が必要だったのかどうか。しかし人々がどんな困難の中でも神がともに歩んでくださること、物質的こだわりを捨て、他者とともに生きることを学ぶには40年は必要だったのでしょう。現代は最小の時間と、最低の労力で、より早く、最大の利益を上げることが求められます。他者と共存することは、半分忘れ去られ、自分だけの世界に閉じこもろうとするのです。

ただどんなに財を成し、水と食物に心配がなくても、隣人を排除して、豊かになっても、心を分かち合う友もいないような生活はむなしい。聖書の民が40年の歩みからわれわれに語る生き方は、正反対の世界に生きているからこそ、とても説得力があります。民族や、国境や、国籍は消し去ることはできないけれど、それらを越えて人が人として手を取り合い、顔を見つめあうことは、今大切です。

(2007年03月25日 週報より)

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