不安な時代にこそ
この時代、世の中の大半の人々は、ますますいそがしく、教会に定期的に通う時間も心のゆとりも持てずにいます。結果として教会の教勢は落ち、教会員は減りつつあります。そうした現実に牧師は当然悩むのです。その現実を前に、明るくもなれません。結果は牧師の責任でもあると理解するからです。その上教団というレベルになれば、新たに献身して牧師を目指す若者は少ないのに、かつてなかった大量の人々が隠退年齢に差し掛かっています。牧師夫婦が別々の教会を受け持ったりする試みがなされていますが、それでも牧師のいない教会が増えつつあります。教団は、隠退する一人ひとりにはわずかな金額でも、対象になる膨大な人数への年金を支給しなければならず、いまや破綻寸前です。いかに若者に献身を勧めるか、いかに教団としての次世代を育ててゆくか、重大な局面です。その上、個々の牧師が心病んだり、不眠症やうつ状態に立ち至るケースは、どこの世界でも変わることはありません。
人のこころは、それぞれの生育や社会経験の中で鍛えられてゆきますが、その強さは限界まで状況に耐えようとしますが、一挙に崩壊することもありうることです。人は健やかでありつつ病む存在ですし、強さは弱さにもつながっています。人にはそれぞれの生きかたがありますので、悩みを抱えつつも、精一杯に生きる人生はそれぞれに尊く美しいと思います。しかしだからこそキリスト教信仰をどう生きるかは、おたがいの歩みの中で大切な課題です。問題の渦中で、孤軍奮闘しつつも、そこにキリスト教信仰が受け止められると、そこに違った光が差し込みます。
キリスト教信仰には奇妙な側面があります。信じられないから、神の登場を仰ぐのです。推測推論が可能な世界に神は必要ないのです。解決が見えないから信じる。人間理性でありえるはずがないからこそ信じる、のです。使徒パウロはアブラハムの信仰をこういいます。
「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた。」
ローマ4:18
「望むべくもあらぬときに」
(文語訳)
‘when hope seemed hopeless’(REVISED ENGLISH BIBLE)
‘He believed against hope.’(REVISED STANDARD VERSION)
一般的に、人は、しばしば先回りして絶望に駆られ、暗澹とした思いに自らを追いやる傾向があります。その時にさしたる確証に基づかない思い込みも多いのです。人は時に一歩退いて、神に委ねる謙遜さをもつべきです。神に一切を差し出して自ら自身も、自らの人生もそっくり神に渡してしまう勇気を持つべきではないでしょうか。
状況や事柄が<hopeless―希望なし>としか見えないときこそ、神の登場のときです。希望に逆らっても<against hope>神が何ごとかをなさること信ずべきです。時代の闇はますます暗黒です。環境問題も深刻になるばかりです。人と人のつながりはますます希薄に、将来への夢を手放す人が多いように感じます。
冒頭に、教勢の低下から牧師も心病む時代と書きました。でもそうした時代状況であればあるほど、こんなに神を必要とする時代はかつてなかったとさえいえます。希望を失っているのは当の牧師であるといえるのかもしれない。教勢が低下し、そうした後ろ向きの見方しかしていない牧師にあるのかもしれません。わたしたちはもっと神に期待し、神に心を寄せるべきなのです。そこから何かが起こるのです。
(2013年10月20日 週報より)