安重根について

安重根という人をご存知でしょうか。韓国では安重根義士と呼ばれ、深く尊敬され、ソウル市には巨大な記念館が建造されています。ただ日本政府はテロリストと呼んでいます。1879年に両班(ヤンバン―貴族の家系)に生まれ、韓国独立運動にその生涯をささげた人です。1909年10月26日韓国統監をつとめ、当時枢密院議長であった伊藤博文を哈爾浜(ハルビン)駅で狙撃し、逃亡せずにロシア当局に捕えられ、翌年3月26日に死刑が執行されました。その年の8月26日に韓国は日本に併合され初代総督大島義昌は安倍晋三氏の高祖父にあたる人とのことです。

当時の韓国では日本による植民地化が進み、今ではあってはならない出来事 -それは韓国の人々にとっては耐えがたいこと- が次から次へと行われてゆきました。1895年、李朝の最後の皇后閔妃が白昼堂々日本の壮士と呼ばれる48名に連行され、路上でガソリンをかけられて暗殺されたのです。犯行を行ったのは日本公使―三浦悟郎という人物と他47名。一応の裁判が日本で行われましたが証拠不十分で全員免訴になりました。

韓国中学校国史では次のように記述されています。

植民地支配が徹底されてゆくと日本による土地収奪、コメの収奪、産業の収奪が進められ、1919年には全国的な3・1運動が展開されます。植民地状態からの民族解放運動が発展します。同年4月15日華城郡提岩里において日本軍が到着し、村民に教会に集まるよう命じ、人々が教会に入ると日本軍は外側から機関銃を乱射して35名を虐殺したのです。その事実はイギリス、アメリカの領事館の調査で確認されました。同様に周辺にあった9つの村で多くの教会が焼き討ちされました。・・・示威が始まった後の3か月間に3万名をこす韓国人が殺されたり負傷させられた。独立運動を鎮圧するという口実で、すべての文明国家が守るべき法を放棄し、日本の軍事独裁は文明人の尊敬をこれ以上受けられないということを立証した。

その一つをとってもあまりに凄惨で、酷薄な出来事で私たちの親たちの時代に起こした出来事とは思えませんが、そのような扱いを受けた韓国の人々のおもいは忘れがたく心の刻まれていることでしょう。

ところで安重根はフランスの神父から洗礼を受けたカトリック教徒でした。獄中の安重根の監視を命じられた看守<千葉十七>は、当初、安重根を伊藤博文殺害犯として憎んでいました。しかし対話を重ねるうちに安重根の思想に共感を覚えるようになり、互いに友人として心を通わせる仲になったのです。安重根は次のように千葉に語りました。「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえった時生まれ変わってまたお会いしたいものです。」
千葉は帰国して安重根の供養を欠かしませんでした。千葉の遺志は家族に引き継がれ1981年には千葉の墓がある宮城県栗原市の大林寺に安重根の顕彰碑が建てられた。また旅順監獄の典獄(刑務所長)だった栗原貞吉は安重根を深く理解し助命嘆願に走り、また種々の差し入れをし、死刑執行後は安重根の死を惜しんで故郷の広島に帰ったと伝えられます。

戦争と植民地支配という時を韓国・中国の人々は強いられた。そして平和憲法のもとに戦後体制が構築されたのでした。戦後レジームからの脱却と声高にいう人がいます。アジアの人々に苦しみを与えた体制は美しい国とは真逆の体制であったことを知るべきです。これだけ多くの韓国、中国の人々が交流する時代。過去に何があったのかを正しく見極めることが求められます。

(2014年10月19日 週報より)

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