パンを分かち合う世界
世界中に経済的な格差が様々な形で拡大します。一国の中で格差があり、欧州の東と西ではやはり格差があり、大陸間でも極端な格差があります。聖歌隊の練習後にMさんの話をうかがいました。彼女が銀座を歩いていて、ある店の前で一足のミュールを見たのだそうです。その値段が9,800円と思いきや、じつはゼロが、もう一つ多かったのだそうです。いわばサンダル。たかがサンダル。9,800円でも高いと思って足を止めたのです。ところが、実際の値段は98,000円だったとのことです。
一方で食べ物がなく、飢えて万引きがバレ、店主に殴り殺された老人。生活保護すら受けられず孤独死する人々がいる一方、われわれの眼から見ればほとんど無意味なほどの贅沢を続ける人々もいます。盗まなければ食っていけない、女性が体を売らなければ生きていけない社会であってはならない。そう信じて社会主義に心引かれていた時代がありました。無論そうあるべきだと思います。でも実際は社会主義を奉じようと、奉じまいと、世界中の国々で極端な格差が存在し、それは強まる一方です。
格差は社会体制の結果というものなのではないのかもしれません。そこにはむしろ人間の心の問題、欲望の問題、生き方の問題なのではないか、最近そう思えています。
聖書の出エジプトの時代、神は飢えるイスラエル人に<マナ>をお与えになりました。それは荒野を放浪する人々に一日も欠かさずに与えられたのです。<マナ>は贅沢で高価なものではありませんでしたが、これさえあれば人々はその日を生きていくのに十分な力となるものでした。ただそれはひとり一日分しか与えられませんでした。ただ六日目だけは翌日の安息日のために二日分与えられました。人は今日一日を喜んで、満ち足りて、感謝に生きればよいのです。神に委ねて、明日を、将来を案じて、先走って心配することはないのです。人が神を仰いで生きるとき、そこには不思議な力が注がれ、人は不思議な安心につつまれて生きうるのです。
やがて約束の地に入り<マナ>は降りなくなりました。マナに代わって人々が作り始めたのはパンです。人々は、マナが与えられていた時代のように今日一日を満ち足りて、質素に生きるべきでした。<マナ>が与えられていたときには「多く集めたものも余ることなく、少なく集めたものも足りないこと」はなかったのです。しかしパンつくりが始まると、人が考えることは、いかに多く儲けるかです。それはどの民族でも、いつの時代でも変わらない欲望の論理です。パンで大金持ちになる人も現れる一方で、その日のパンにも事欠く貧しい人も現れました。<マナ>の時代とちがって、文明発生と共に、たちまち格差社会が登場したのです。
21世紀に入った今、将来、パン=食糧問題は深刻な国家紛争となるといわれています。世界は神を忘れ、パンを力で獲得し、勝者と敗者との間の格差が地獄をもたらすような世界になっていいわけがありません。大富豪といわれるような人々に、幸福と平安にあふれた人々は極めて稀であると聞いたことがあります。自分の力だけを頼みとすると、自分は全能であるかのように、人はおごりたかぶるのです。でも、自己中心的で、自分だけが利益を得て、儲かればよいなどと考える人間は、他者との友情は育たず、心はゆがみ、ひどく孤独で、やがて人格は崩壊していくしかないでしょう。
<マナ>に生かされたイスラエル人は、選択の余地のない状況下で<マナ>に生きました。それはやむを得ず、そうせざるを得ない状況下でした。わたしたちは格差あふれる(?)パンの時代に生きています。
でもパンは裂いて食べるものです。
つまり分かちあって食べるものなのです。
パンを分かち合うためには、心を分かち合わねばなりません。聞く耳もたずの独占と強奪をやめて、共に生きること。世界中の政治家たちに求めたいものです。
イエスはやがて自らを裏切ることになる弟子たちに、パンとぶどう酒を分けてくださいました。裏切りの向こうにある弟子達の可能性を信じてくださったのです。そんな弟子達すら信じようとする主イエスの心。そこに信頼と友情が育つ世界があります。信じあう世界。しいられたが故でなく、自ら喜んで分かち合う世界。そんな共同体が生まれ育つことを心から願っています。
アッシジのフランチェスコのオリジナルの聖堂の脇には、貧しい人々のための食堂がありました。いつでも、だれでも包み込む神の愛が実感できる分かち合いの食堂。21世紀の<マナ>の世界。与える側と、与えられる側が心つながれる世界。可能でしょうか。
(2007年10月28日 週報より)