差別とは

国会議員で頸椎損傷による重度身体障がい者の木村 英子さんは、小さいころから周りの人たちに「障害があって、かわいそうだね」と言われてきたそうです。彼女は、そのたびに深く傷つきました。その人の人生がかわいそうか、そうでないか、不幸なのか幸福なのかは、他人が評価することではありません。障がいがあろうとなかろうとその人が幸せかどうかは、その人が決めることです。ですから木村さんは生まれる前にそうした判断が下される出生前診断に強く反対しています。ハンセン病患者が強制的に不妊手術を受けさせられたことに対する国家賠償訴訟に通じる問題です。

アイヌ遺骨をアイヌの人たちに返還する運動を通じて知り合ったある在日韓国人の方は、こんな話しをしてくれました。彼は小さいころから自分が韓国人であることをできるだけ周りの人たちに知られないようにして育ちました。しかし近所の人たちは、彼らが韓国人であることを知っていて、ある時「あなたたちは朝鮮人だけど、良い朝鮮人だ」と言ったそうです。この近所の人は、決して悪気があって言ったのではないでしょう。むしろお世辞のつもりだったと思われます。しかしそれを聞いた彼はその発言が民族差別に基づいていることに深く傷ついたそうです。このことは「あなたは日本人だけど、良い日本人だ」とは決して言わないことからも明らかです。

ある大学の授業で、部落差別について語っていた教師に対して、クラスの帰国子女の学生が以下のようなことを述べました。「私は海外で育ったので、日本の部落差別について教わらなかったし、今も殆ど知りません。だから私は部落の人たちに対して差別意識はありません。教わらず知らずにいたほうがむしろいいのではないですか。」これは「知らなければ、差別のしようがない」という一見するともっともらしい考え方です。差別を知らない人にわざわざ教えるから、差別がなくならないというのです。言わば「寝た子を起こすな」というロジックです。しかし本当にそうでしょうか。この教師は、差別がなくならないのは、むしろ差別を知らないからだと言います。差別の実態を知らないと、現に差別があるにも関わらず、なかったことにされてしまいます。差別されている人がいくら差別されていると主張しても、それはあなたの考えすぎじゃないのとか、もっと広い心で受け止めなくちゃなどと言って、問題を封じ込めるために被害者が責められることになります。セクハラとかパワハラなどの問題も同じです。「寝た子を起こさない」ことによって、仮に一時的な平穏が保たれたとしても、問題の本質は一向に解決しません。本当に問題を解決しようとすれば、ある場合にはあえて「寝ている子を起こす」必要があるのです。差別問題の本質は、差別される側にあるのではなく、差別をする側にあるのです。私たちの多くは、自分の出自を気にすることはありません。あるいは自分の生まれが理由で希望する仕事に就職できなかったり、好きな人と結婚できなかったり、あるいはそうしたことが将来、もしかして自分の身に起こるのではないかという不安を抱くこともありません。これは私たちが日本という社会で、ある種の特権を有しているからです。アメリカでは肌の黒い人たちは、町を巡回している警官の存在を絶えず気にしながら生活しなければなりませんが、肌の白い人たちにそうしたことはありません。不動産の物件情報欄に「要住民票」と記載されていても、私たちはそれが外国人を排除する差別条項であることに気付きません。

「ファリサイ派の人々は、これを見て、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」と言った。」(マタイ9:11) 

ファリサイ派の人たちは、罪びととは決して一緒に食事をしないという決まり事を遵守することで、自らの特権的な地位に基づく利益を享受していました。そうした人たちからすれば、自分たちの仲間であるはずの「あなたたちの先生」がなぜ自分たちと同じ振る舞いをしないのか理解できませんでした。多数派であることで得られる特権・利益に意識的になること、それが自分の内に潜む差別意識に気付き、誰もが等しく扱われる「神の国」へ至る一歩になるでしょう。

五十嵐 彰(2022年7月10日 週報より)

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