やさしさに生きる
信仰者という存在は<優しさをもつひとびと>という漠然とした思いが一般の人にはあるように思います。ですが実際に見聞きする出来事に触れると必ずしもそうでない一面があります。たとえばイスラムでいえばスンニ派とシーア派の対立やキリスト教においてもながく続けられてきたカトリックとプロテスタントとの対立など、乗り越えるのに500年も要したということが出来ます。しかし今なおそこに複雑な思いを抱く人々は少ないとはいえません。宗教者は小異を捨てて、大同につくことが苦手です。重箱の隅をつついても、自らの信条の正しさを主張したがるのです。今回アメリカでコーランを焼くという牧師の行為もその類の出来事です。ですから過去に<宗教戦争>がしばしば起こったのです。ですが本来は<宗教>と<対立>はそぐわないはずなのです。宗教者は<優しさ>に生きるべきです。
一般的に、人がひとに優しくなれないのは、それなりの思いがそれぞれにあるからです。今の社会はことによると世界中が競争社会であり、成果主義であり、何らかの形あるはたらきを要求される部分があります。個人としては力いっぱい努力しているつもりでも、その努力を評価する側から見ると、そう見えない。努力に反して、不十分な評価しか得られない。いつしか不満を心に抱える人は少なくありません。低い打率に悩むバッターが、逆転ホームランを打つように、一挙に評価を変えることができれば、悩みは一挙に解決します。しかし基本的にそれはただの夢、妄想でしかありえません。夢と現実の間には大きな距離・乖離があります。
結局<世の中は自分を分かってくれない>
世の中は、時に上司であったり、親であったり、身近な人間関係であったりします。
しばらく前に読んだ本の中に、なぜ1930年代にドイツがナチズムに傾斜したのかという部分がありました。(ボンヘッファーとその時代-宮田光雄 著) 私にとっては常に永遠のなぞである課題です。著者の宮田先生は、ドイツ社会が高度に資本主義化される中で、第一次大戦の敗戦を経て、高い失業率のなかで、深い疎外感に陥ったドイツの労働者が、ナチズムにひかれていった社会状況を描き出します。<疎外感>こそが人々をナチズムに向かせるひとつの要因だった。深く納得できる説明だと思いました。同時に、日本社会にあっても自分は不当な扱いしか受けていないと感じている人々は少なくないような気がします。すぐにキレル人々、腹を立てて、簡単に人間関係を絶つ人、あちこちにいそうです。
人は決して不当な扱いばかり受けているわけではありません。思えばどれほどの善意にかこまれているかを気づくべきです。キリスト教的にいえば、はかりしれない神の愛につつまれてわたしたちは日々を歩んでいます。神の愛は具体的な人の善意や暖かい心として、どっさりわたしたちのところに届けられています。この神の愛に見捨てられている人は誰もいません。<見捨てられている>とおもうのは、思い込みに過ぎないのです。否定的な思い込みに自分をゆだねて、人生を使い果たすことは、人生を捨てるに等しいことです。あなたの注がれている神の愛に、人の善意にどこまで気づくことが出来るだろうか。そして優しさに生きよう。
(2010年09月19日 週報より)