心とらえる神
わたしたちは、以前、キリスト教に何のつながりも、関心もなかったものです。でも、いつかキリスト教信仰をかけがえのない大切な生き方として生きています。思えば不思議なことです。それは単なる偶然とか不思議という次元を超えたことではないでしょうか。
というのはそれがわれわれの一生涯を変えてしまうほどの大きな出来事だからです。若き日にキリストを信じた人だけではありません。晩年入信した人も、様々な労苦や苦い経験がここに至る道程であったと深く納得し、人生を受け入れ周囲に深い感謝をおぼえることができるのです。一時の、感情的な決心であるなら、長続きするものではないでしょう。神を信じたからといっても、自分が世界の中心に据えられるわけではありません。時には信じるがゆえの社会との不調和や、無理解に直面することがあるかもしれません。さらには考えが同じはずのキリスト者とでも、考え方の違い、信じ方の違いにぶつかることもあるかもしれません。でも少なくてもこの教会でキリストに導かれた信仰の友と、気がつけば10年、20年、30年と喜びや悲しみを分かち合っている現実は大きな励ましを受けるのです。それは受け止め方によれば、肉親、家族のような、場合によってはそれ以上の密接で、親しいつながりとさえいえます。
信仰に導かれ、信仰生活を生涯続ける原動力はどこにあるのでしょうか。意志強固で頑固な人がキリスト教信仰を生涯全うするとは限りません。自分への確信が強いだけの頑固な人なら、逆に神の前に素直に歩み続けるなどできず、エゴにみちた頑固が打ち砕かれることなしに、神の前に生きることはできません。けれど持ち前の頑固さは信仰によって、神にきよめられ、深い愛、強い信仰へと高められるのです。ですから信じ続ける力はわれわれの側の強さではなく、神があなたをとらえた結果なのです。神があなたを選んだのです。
神は信仰の父といわれるアブラハムを選びました。それはアブラハムが75歳のときです。若き日のアブラハムをなぜ神は選ばなかったのでしょう。きっとそれが最適のときだったのでしょう。やる気満々の若き日のアブラハムは、聴こえてきた神の促しの声を平気で無視したかもしれません。
じつはアブラハムには二人の子がいました。選ばれたのは先に生まれたイシマエルでなくイサクでした。イサクにも長男エソウと次男ヤコブがうまれますが、選ばれたのはヤコブでした。神の選びは単に、信仰の家に生まれたら、自動的に選ばれるのではないし、生まれた順番でも、人間の善良さでもないのです。
やがてイスラエルが王国となったとき、最初の王サウルは捨てられ、ダビデが選ばれます。ダビデは善行もありましたが、それを上回る非行もありました。 神の選びは奥義―ミステリーそのものです。
一つ言うとすれば、弱く、神の助けを必要としている人に神は惜しみない救いを施すことです。その結果ミステリアスにも、わたしたちは神に選ばれ、神の愛と選びにからめとられたのです。この深い思いと愛に選ばれたわたしたちですが、神に従い続けるか、打ち切るかは、わたしたち次第です。そこまで十分な配慮をしたうえで、神はなお進んで、わたしたちが自発的に、進んで神の前を歩むことを望みます。強制や強要は神がもっとも嫌うことです。それはそこにかけられた神の自由な愛への願いがあります。
(2009年02月22日 週報より)