私は少しも悪くない
「熱心に努めよ。悔い改めよ。」
黙示録3:19
先日、電車に乗ったときのことです。30歳台半ばと見える若い男のCDプレーヤから漏れる音が気になったらしい、隣の60歳台のオジさん(たぶん私より5-6歳年上かとお見受けする)が注意をし始めた。若い男は全く聞く耳を持たない。オジさんのほうはやがて激高して、怒鳴り始めた。若い男は、このくらいの音は我慢しろよ!と言い返す。殴り合いにでもなればオレの勝ち、とふんでいるようにも思えました。
二人の言いあいは、止まることなく、沸騰し続ける様子でしたが、われわれ夫婦は調布で乗り換えのため、その電車をおりました。その後どうなっただろうか。
無論コトを伝えるにはそれなりの方法もあります。新聞の投書記事で、若い女性に電車の中の携帯電話を注意したら、駅員に向かって「この人痴漢です。」と騒がれたという出来事を記している人がいました。聞く耳持たずというこうした出来事は、昔もいまも変わらないのかもしれません。
以前法務省が重刑法犯を犯した人々に、「あなたは本当に悪事に手を染めたという意識がありますか」というアンケート調査をしたことがありました。いわゆる殺人や強盗という、重大な犯罪を犯した人々ですから、当然「自分は悪かった。」という答えが戻ってくると思いきや、回答の八割は「自分は悪くない。社会やたまたまそこにいた犠牲者が悪い。」と書いてきたと新聞は伝えています。社会のどこにおいても、人の本音は<自分は悪くない。>のです。
悪や罪を自覚できない状態は、人間的に言えば人格が幼なすぎるからです。とはいえ人間は機械ではありません。場所が代われば、ジキル博士はハイド氏に豹変するのです。人間の一つの姿なのです。まして人間の心は、あるときには高まることがありますが、別の時には同じ人とは思えないほど低空をさ迷う事もあるのです。
人のこころにはエゴが宿り、弱さや自己弁護に汲々とします。だからこそ悔い改める心、罪の告白、謝罪は、そうした弱さを宿しているわれわれ自身が、あるがままの姿を自覚し、神の助けがどれほど必要なのかを、仰がしめます。
<私は悪くない。><私には何の問題もない。><悪いのは社会だ。><悪いのは親(夫)(妻)だ。>
そういい続け、周囲の言葉に耳を傾けることを拒絶しつつけるときに、人生は低空飛行の果てに、失速、墜落していくばかりでしょう。冒頭の言葉は悔い改めを促す神の言葉です。
人は信仰熱心になればなるほど、悔い改めなどは他人のことと信じ込む傾向があります。
<熱心に努めよ。悔い改めよ。>
熱心に努めることは、他人より高い信仰者になることではありません。悔い改めることこそ、信仰のあかしです。他人に向かって、睥睨(へいげい)して、人を見下す信仰者など、いるはずもありません。
主イエスの弟子たちこそ、いかに主に無理解であったか。足りないものであったか。裏切る者であったかを、福音書はしつこいほど、くりかえし描きました。それは弟子たちの悔いの深さです。問題にみちた私たちひとりひとりを主は、こうして受け入れてくださいました。さらなる悔い改めに生きられるように。そして言うまい。「主よ、このままで放っておいてください。」とは。
(2009年02月01日 週報より)