クリスマスの不思議
事情を知らない外国人がこの時期日本を訪れたら、日本はキリスト教国かと思えるほどクリスマス一色です。「うちはクリスマスをやらない。」という人がいたら、けじめのある、信頼できる人、そんな皮肉を言いたくなるほどの勢いです。
先週の新聞で、ひとつの全面広告が私の目を引きました。クリスマスカラーである赤をバックにして、金色で大きく Christmas Selection と書かれ「ステキなクリスマスとなりますように。―あなたの大切な人のために」と読者に呼びかけています。美しいクリスマスの雰囲気に満ちた通販の広告でした。隅に時計の写真があります。値段を見ると「756,000円~」とさりげなく書いてあります。私にはゼロが一つでなく、二つ多いように思えました。新聞に全面広告を出すのですから、自慢で出したのでなく、売れる見込みが立ってのことです。
一方で途方もない多くの人々が職を失い、住む家さえ奪われようとしていると新聞1面には書かれているのに、なかほどのページには、こうした広告も目に入ります。しかもクリスマスだからこそのCM?
もっともクリスマスを欧米の習慣として宗教抜きに(?)受け止めるなら、アメリカのクリスマスディナーとして紹介される食事はテーブルいっぱいに並べられた七面鳥やローストチキン。いくつものケーキ、シャンパンにワイン・・・・。それらは最も貧しいものの一人としてお生まれになった幼子イエスとはまったく無縁の世界です。
かつてマザーテレサはインドの捨てられた人々の姿の中にキリストの姿を見ると言いました。パレスチナ、アジア・アフリカ、スーダンやグルジアの難民テントの中で幼子イエスのように貧しさのきわみの中で生まれる人々が今どれほど多いことでしょう。
クリスマスの物語の中には不思議な光とこころの豊かさが満ち溢れています。周囲にその光がこぼれ出るのです。成長したイエスはなんと心豊かな方だったでしょう。きっと、母マリヤのあふれる愛に育まれたからにちがいありません。マリヤも愛にみちて子ども達を養育したことでしょう。貧しさや身分の低さは何の問題ではなかった、かのようです。
幼子イエスを描いた数多くの名画。不思議な平安と光が満ち溢れています。音楽ではヘンデルのメサイアにしても、バッハのクリスマス・オラトリオにしても、他の作曲家の作品でも、クリスマス音楽には特有の喜びが描かれています。人間の生の現実の中でイエスの誕生のように貧しく、また家畜小屋で誕生すると言う劣悪な環境の中に生きる人々においては、ふつう光も感謝も生まれません。そこに植えつけられるのは怒りと憎悪です。
抑圧や占領下にあるあちこちの難民キャンプはテロリストの苗床です。しばしば子ども達は幼くして銃や手りゅう弾のあつかいを習い、有能なゲリラ戦士に育て上げられます。
幼子イエスの誕生には、天使による平和の合唱が聞こえ、羊飼いの喜びの賛歌が響いたのです。そこでは喜ぶはずのない人々が喜ぶことができ、憎むことが当然であるような人間の現実が神の愛によって溶かされた出来事だったからです。
クリスマスの原点はそこにあります。交わりやパーティも、クリスマスの楽しみの一部分でしょう。でもそれは、こころの寂しさを埋め合わすものではありません。いらだつ心や憎しみを静めるものにはなりません。クリスマスの初心に戻って、心からイエスの誕生をお祝いしよう。祈る心を持ってわたしたちの心に神の愛を受け止めましょう。神の愛は、数十万円もする宝飾時計よりはるかに、あなたを輝かせることです。
(2008年12月14日 週報より)