神の祝福にいきる
聖書を読んでいて、時折深々と同意させられる言葉があるものです。申命記33章29節の言葉です。
「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾剣が襲うときのあなたの力」
イスラエルは神の民として選ばれるに何かふさわしいなにか特別な資質を備えていたとはいえません。エジプトで奴隷として強制労働を強いられていた人々。弱く、苦しむ人々を見過ごしに出来ない神の愛で、彼らは一方的に選ばれ、神に救われたのでした。エジプトから解放され、どよめくような歓喜のなかで約束の地にむかって自由への歩みを始めました。「あなたはいかに幸いなことか!」そう呼びかけられ、「そのとおり、神さまわたしは心の底からさいわいです。」とその時、彼らは答えることができた。
とはいえ、イスラエルの民たちは神と共なる幸せを常にかみしめてきたのではありませんでした。「奴隷から解放されたこと」「約束の地に向かって自由への旅路に踏み出したこと。」そしてそのために行われた神によるさまざまな奇蹟に次ぐ奇蹟。どれをとってもそれは特別なことでした。しかし当のイスラエルの民達は、日々の砂漠の放浪による貧しさのゆえに、顔はゆがみがちだったのです。心満ちるどころか、不平と不満に、エジプトで奴隷をしていたときのほうが良かった!?と口々に言い始めたのでした。
「あなたはいかに幸いなことか!」といわれて、「神さま、そのとおりです。わたしは幸せです。」と言い切れるのは、おかれた状況や持ち物ゆえのことではありません。さまざまな要因、誘因、原因を考慮に入れなければならないでしょうが、しかし根源的に信仰の心を明確に、鮮やかに保ってこそ、幸いにむかって歩みだすことが出来ます。
人はしばしばせつなの現実しか見えなくなります。神が次々に繰り出した奇蹟も、単なる過去に押し流してしまえば、今直面している貧しさや飢え渇きが世界のすべてでしかなくなるのです。この旅そのものが約束の地にむかっての希望の旅路であることを忘れ去るとき、貧しい食物、砂漠のテント暮らしでしかない現実が、あまりにも惨めに感じられてきます。
つきるところは被害者意識にこころ閉ざされていきます。自分が何者なのかは現実そのものからは見えてきません。過去と未来を見つめる時間的(歴史的)視野から、人は自分自身を見つめねばならないのです。またともに歩む隣人を視野に入れた、周辺世界への視野も大切でしょう。それでも自分自身を見つめることは簡単ではありません。信仰の視野こそ人が失ってはならないのです。
ダニエル・バレンボイムというピアニスト・指揮者がおります。今晩バレンボイムのリサイタルがミラノで行われるので、長女が聴きに行くのだそうです。この人はイスラエル人ですが、同国民の不興を買いながら、音楽家としてパレスチナ人、アラブ人との和解と対話をすすめようとしています。ユダヤ人とアラブ人の若い音楽家をヨーロッパに呼んで共同のワークショップをしたり、エルサレムでワグナーの楽劇をはじめて上演しようとして妨害をされたこともあります。イスラエル国内では、ワグナーはナチが好んだ音楽だから、演奏は行われた事がなかった!のです。また彼はヨルダン川西岸地区とガザの軍事占領には反対している少数派ユダヤ人でもあります。圧倒的多数の人々がパレスチナ人を敵とみなして軍事には抑圧、人種的には差別分離する中で、この人の和解と平和への姿勢は教えられます。
まったく同じ環境の中で、幸せを見出して、神と隣人の平和のために生きようとする人々があり、他方で同じ状況の中で、自らの不幸をかこち、被害感情に怒るひと。われわれもときに積極的に生きようとしつつも、時に心の奥底に被害感情がわだかまることがないわけではありません。でもそうすることで自分を失って、得るものは何一つありません。申命記は読むものに、二者択一を迫ります。どう生きるべきかは明確なのに、そうすることの出来ない人の心の不思議さ。だからこそ信仰に生きる意味の重さがあります。
(2008年06月22日 週報より)