聖霊がくだるとき
五旬節の日、地上のイエスの弟子たちに聖霊が降りました。かれらは予想もしていなかった不思議な力に満たされて、あれほど弱さと恐れの中にあったことが嘘のように、人々の前に出て行き、堰を切ったように堂々と語り始めたのです。彼らはまず自らの弱さを深く悔いると共に、神がそのイエスをよみがえらせ、かつその神が彼ら自身を再び弟子としてお召しになっているという確信に立ち予想される迫害を超えて、地の果てまで福音を延べ伝える勇気が与えられたのです。それは一時の感情の高揚ではなく、聖霊の働きだったのでした。
しかも、弟子達による演説(説教)は、エルサレムで時を同じくして行われていたユダヤの過ぎ越しの祭りのために集まっていた全地中海世界から来た人々が、自分達の生まれ故郷の言葉として理解される言葉でした。聖霊を受けると、自分達だけが特別な神による能力を持つ存在になったような、特権的な存在にされたかのような受け止め方をする向きもありますが、そうでしょうか? そうであれば聖霊は結果として特権的なキリスト者と普通のキリスト者の線引きをすることになるかもしれません。
ペンテコステにおいて聖霊は人と人の間に引かれていた分断の線引きを消し、隔てていた壁を打ち破ったのでした。人と人が和解し、心には平和の火が灯されました。牢固として横たわっていた国籍、人種、肌の色、男女差、階級差は教会の中でやすやすと越えられ、人と人がひとつになったのです。分裂でなく、連帯と一致をもたらしたのです。
やがてユダヤの辺境ガリラヤ出身の弟子たちは、ユダヤから世界に向かって活動の幅を大きく広げていきます。聖霊の力によって弟子たちは自己中心的かつ民族主義的な愛ではなく、非ユダヤ人も彼らの隣人、否、彼らの仲間として共に手をたずさえて生きていくことが当然のこととして実現していくのです。
しかし時代が下り17世紀、18世紀に、キリスト教宣教師は軍艦に乗り、軍隊と共に、アジアに、南米に、アフリカに渡りました。キリスト教が帝国主義の先導役ですらあった時代がありました。E・ライシャワーですら、「近代化というものは欧米化によってなされる。」と著書で書いています。
キリスト教が何の不思議もなく帝国主義と結びついていた時代がありました。福音は善きものだから、<未開人?>には強要してもよいと考えたのです。しかし聖霊は強要を嫌います。福音は自由と愛という基礎にのみ根づくのです。信じること、信仰の確信に生きることは大切です。しかしそれは神を信じることであって、妙な自信に固まることではありません。神を信じると言いつつ、教会から黒人を排除し、アパルトヘイトを支持し、被差別部落出身者をないがしろにしてきた現実はつい昨日のこと、あるいは隠然となお続いている事実かもしれません。
ペンテコステに起こったことは、聖霊の業です。聖霊が風のように吹きわたるとき、直ちに人と人を隔てる壁は崩されるのです。しかし同時に、人がこの恵みを軽んじるとき、福音を口にしながら、ペンテコステ以前の姿にたちまち戻って、差別と強要が人を支配するのです。
(2008年06月01日 週報より)