本能を越える力
数週間前に、似たものどうしの遺伝子情報の差に関する新聞記事がありました。馬とシマウマでは、外見的にはさほどの違いは感じられません。シマウマの模様の縞(しま)を茶色に染めてしまえばシマウマは完璧に馬に見えるだろうと思います。遺伝子情報として馬としまうまでは1,5%しかちがわないのだそうです。そして人間とチンパンジーでは、その違いはさらに小さく、その差は1,2%となるのだそうです。人間とチンパンジーは、馬とシマウマの違いよりも近い関係にあるのだそうです。
以前、犬山市にある霊長類研究所から、4匹のチンパンジーが、リーダーの13歳のチンパンジー<アキラ>にひきいられて研究所を巧みに脱走したことがあります。彼らは4つの鍵を手に入れて、しばらくの間それを隠しておき、タイミングをはかって次々に鍵を開錠して、見事脱走に成功したのです。その後再び保護はされましたが、その見事さに大きな話題になりました。チンパンジーがどれほど知的なのか、今まで言われてきたように人間の幼児並みの知能だけなのか。あるいは何らかの言語によるコミュニケーションがなんらか存在するのかどうか。人間との遺伝子情報の違い<1,2%>がどれほど近いのか、遠いのか。興味尽きないような気がします。
しかし、その一方で人間はいっそう野獣化しているような出来事が多いことです。人が行う営みの中で、最も遺伝子的に近いチンパンジーでさえもけっして行わない人間的行為は<祈り>です。それも商売繁盛・家内安全・無病息災という願望成就型の祈りではなく、イエスキリストの名によって祈られる祈りです。
本能によって生きるものは人間でも動物でも、求めることはただひたすらに<与えられること>です。イエスキリストの名によって祈ろうとするときに、人はイエスが神に求めたように祈るのです。主イエスは全生涯を自らのすべてを他者のために注がれたのです。祈りは与えられるより、神に自らを与えることを求める行為です。
自分には祈り求めるような弱さも課題もないと考える人も少なくありません。しかし、自分自身の心の中を見つめるときに、人はそこにいくつもの積み残した、解決のつかない課題に気がつきます。人には何歳であれ、いつも目標があり、課題があります。目標のない人生、何かをひたすらに見つめる対象もない人生など、さぞ空虚で、寂しい人生であることを公言しているようなものです。
あれも、これも、イエスの名によって祈らねばならない多くの事々にかこまれている人生は幸いなのです。課題が、涙なしには担いきれないほどの重荷を抱え込んでいる人も多いのです。
しかしやはりイエスのもとには慰めがあり、また予測超えた意表をつくような解決が必ずあるのです。いまだ解決のつかない途上であっても、不思議な神の力に支えられ、新たな力が与えられるのです。
(2008年05月04日 週報より)