信仰に生きよう

人はなぜか、信仰と不信仰の間を行きつ戻りつします。信仰に徹することも、不信仰に身をおき続けることも耐えられません。旧約聖書に登場するアブラハムもダビデの生涯においても、そうした事があったこと表わします。

かつてイスラエルが大飢饉に見舞われ、エジプトに難を逃れて寄留した時代がありました。ヨセフが国の宰相として、イスラエル民族は丁重に遇されました。けれど飢饉が止んだあと、人々は故国に帰るべきでした。でも戻る気にはなれませんでした。エジプトの高い文化と生活は、故国に帰ってからの牧羊者の生活に較べると、はるかに豊かで、心地よいものでした。
人々は豊かさと物への執着が第一でした。神への信仰に生きる生活、神の民として生きるアイデンティティーは反古にしてしまいました。物が第一であるとする、物質至上主義はいつしかイスラエル民族自身がものととして扱われる奴隷化へと道を開いたのでした。人間はつい楽な方向へ進みます。それは時代を限らず、万国共通です。自分にとって都合のよい方向を選びます。イスラエル民族は一日も早く、貧しくとも、自由な信仰の地である約束の地へ帰るべきでした。
けれどついにエジプトに430年もの長きにわたって滞在してしまったのです。もちろんその結果として刈り取った苦い果実、神の救いから離れた惨めさを味わいつくしました。あまりにも当然のように思える神とともに歩む生き方、神に守られている現実、そこに与えられる神の愛の現実。

人はこの神の愛の現実に気づこうとしません。気づいたら決然とそこを立って、約束の地に向う勇気を持つべきです。わたしたちにとって約束の地は必ずしもイスラエルを意味しません。地理上のパレスチナにおいても、人々は罪を犯し、神から遠く離れる日々を送ったのですから。エジプトにあろうと、パレスチナにいようと、人々は目先の日常生活のほうが、信仰生活より先行したのです。人はいつも自分自身を振り返って、これこそ自分が行く道と確信して日々を歩みます。エジプト滞在もそうして続けられたものでした。
この道しかない!と確信した歩みが間違った決断であると見直すことはつらいことです。でも人間は個人でも、集団でも、その渦中では取り返しのつかない過ちに、意外と気づきにくい存在なのかもしれません。他人の目からは行きつ戻りつする、進歩のない姿にしか見えないかもしれません。しかし、戻れる場所、精神的よりどころが確かにそこにあるということは心強いことです。

現代世界は、信仰からますますはなれる世俗化の時代です。それだからでしょうか、これが人間の所業かと思われる出来事も多く、人間性の崩壊を思わせるような出来事が多いのです。平凡で、当たり前のように歩む信仰の生活は、けっして当たり前でない神の業が実現する特別な歩みなのです。

(2007年10月21日 週報より)

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